2017年7月24日月曜日

百年の散歩と散歩

夏に休みを取ってドイツ旅行に行く。
ということをあちこちで言い触らしている。

言い触らしていたらいいことがあって、ベルリンに行くならこの本がおすすめですよと親切な人が教えてくれた。


多和田葉子『百年の散歩』

タイトルを聞いてメモした時に「散歩」と入っているだけでもういい感じと思った。私は散歩が好き。でも百年も?
表紙も好きな感じ。よく見るとベルリンのシルエット。

ベルリンに行きます。もちろん。ベルリン初めて。
ベルリンに行かないでヴェネツィアに行くというプランもあるにはあったが
ベルリン。行ってみたいでしょう。やはり。

旅の主目的はカッセルであり、ベルリンは言わばついでなのだが、ベルリンにも行くと決めた時から私の頭の中ではベルリンベルリンベルリン…と鐘のようなものが鳴っている

ベルリンという街に最初に想いを馳せたのはたぶん『舞姫』を読んだとき
高校の教科書とかに載っていて。
ウンテルデルリンデン…頭の中で鳴り響いたことを今でも覚えている。国語の授業中。ただし『舞姫』の授業ではなかった。私はいつも教科書の授業に全然関係ないページを読んでいたような気がする。
ウンテルデルリンデン、この響き高校生はみんな好きだと思う。

本を手に取ってまず帯に書いてあることに惹きつけられた
わたしは今日もあの人を待っている、ベルリンの通りを歩きながら。
そして裏の帯にはこうある
都市は官能の遊園地、革命の練習舞台、孤独を食べるレストラン、言葉の作業場。
惹句だなあと思う。言語的高まり。

多和田さんの本をちゃんと読んだことなし。
群像の変愛小説特集に収められていた変愛小説は読んだ。驚きの。漢字が走りながら分解していく。
趣味をもたなければどんな魅惑の味も未だ口に入らぬうちに人生を走り抜くための走力を抜き取られて老衰する
という具合に。
あと「グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた」と訳していたのには驚いた。
なんかドイツ語でも小説を書いているらしいとか、ベルリンに住んでいるらしいということをは知っていた

表紙も奇妙でかわいいなあと思いながらページをめくり目次をみると、ベルリンの実在する通りや広場の名前が書いてある。擬似的な旅のはじまりにもうちょっとわくわくする。

カント通り Kantstraße
カール・マルクス通り Karl-Marx-Straße
マルティン・ルター通り Martin-Luther-Straße
レネー・シンテニス広場 Renee-Sintenis-Platz
ローザ・ルクセンブルク通り Rosa-Luxemburg-Straße
プーシキン並木通り Puschkinallee
リヒャルト・ワーグナー通り Richard-Wagner-Straße
コルヴィッツ通り Kollwitzstraße
トゥホルスキー通り Tucholskystraße
マヤコフスキーリング Majakowskiring

最後だけリングってなんだろうと思った。読めばわかる。輪になっている通りのことだった。
パリに初めて行ったときも思ったことだが、日常的に死者の名前が連呼されるというのは不思議な感じがする。
日本は森鴎外通りとか森茉莉広場とかない。
グーグルマップも死者の名だらけで
芸術や思想によりこの街を作り上げ、死んでいった人たちの名前が連なる。

読み始めようとして、一番最初の章のタイトルが「カント通り」であることにハッとした。
この夏、ドイツ国鉄でベルリンに着いた我々はまず、動物園駅という駅を目指す。
そしてそのツォー駅(ZOO)で降りて、カント通り沿いにある宿へと向かうのだ。

ベルリンに長く住んでいる日本人であるらしい「わたし」がカント通りにある「黒い奇異茶店で、喫茶店で」、男か女かもわからない「その人」を待ちながら言語遊びをしているところから小説は始まる。
小説に出てくる黒い奇異茶店はシュバルツェス・カフェのことらしい。
宿を探しながら、看板と窓に鸚鵡の電飾のあるその店も探そうと決めた。
FUTONという名のベッド屋も探す。しぇるしぇ。のん。あろ。だこ。
要するにすぐにこの小説に魅入られ、興奮していったん本を置き、ダンスを踊った。

もちろん、突然恋に落ちたが如く一冊の本に夢中になり、一晩で読み終えてしまうようなこともあるが、基本的に私は同時並行で複数の本を読み進めることを好んでいる
本をすぐ読み終えてしまうのはもったいないという価値観があり、なるべく長く読んでいられるようにもがく。恋の最初のときめきをなんとかして引き伸ばそうとするのに似ているかもしれない。恋の始まりはたのしい。相手のやることがことごとく心に響く。素敵に思える。本なら同時並行で読み進めても大丈夫。問題ない。

だからかもしれないが、本を読むという行為は私の中でさらに細分化されていて、それに合わせひそかに本が分類されている。

①寝る前にベッドに持ち込んで読む本、それらはベッドサイドに積まれ、夜ごと少しずつ読み進められる。眠れなくなるほど続きが気になる本はダメ。短編集やエッセイなどが良い。幻想的な文章も良い、続きを夢で見られるかもしれない。

②部屋をひとしきり片づけたあと、綺麗になった空間で紅茶を入れ何なら少しおやつも用意して、良い姿勢でソファに腰かけて読む本。休日の午後。日が落ちるまで本を読む以外のことは何もしなくていい。それらは常にきちんと本棚に収められ、ふいに選ばれ開かれたとしても驚かず、品行方正で、礼儀正しい。

③泣いている。絶望している。疲れて家に帰ってきてもう二度と何もしたくない。そういったとき現実逃避として読む本。狂っていたり怒りを湛えている方が良い。コートを着たまま読む。それらは座り込んでもう動けなくなったときにも手が届く範囲に無造作に積まれている。

④風呂で読む本。しわしわになる。古本屋で100円で買った文庫本。図書館のどうぞご自由にお持ち帰りください。それらは風呂場に置きっぱなしにはされないという最低限度の扱いを受けている。

⑤ご飯を食べながら読む本。お行儀がわるい。それらは食卓に置きっぱなし。子供のころ「ご飯を食べながら本を読むのはやめなさい」とよく怒られていたが今は誰も見ていないので怒られない。最近は実家に帰ると「ご飯を食べながら新聞を読むのはやめなさい」と言われる。新聞をたたんで脇に置く。それでも横目で短い記事を読んでいるのがばれる。

⑥勉強机に向かって読む本。難しい本。勉強の気持ち。それらは買っただけで勉強した気になることもあるので注意が必要。図書館で読むこともある。何かをすぐ参照しながら読みたいような時、図書館は本がいっぱいあって机が広くて無料で便利。

⑦会社の昼休みに読む本。はあんまりない。何の本を読んでいるのか訊かれたくないから。仕事関連の本を読んで熱意を演出することもある。

⑧外出先で読む本。電車の中で、公園で、喫茶店で、あの人を待ちながら、散歩の合間に、映画が始まるのを待ちながら、帰宅しながら、読み進める。重めの本と軽めの本、2冊あると良い。それは重量のことでもあるし、内容のことでもある。2冊あるとどちらか1冊を読み終えてもまだ1冊あるという安心感があるし、1冊がたとえつまらなかったとしてもまだ1冊あるし、気分に合わせて好きな方を読むことができる。厳密に言えば、これから誰かと会って話したり笑ったりする日に読む本と、外出するものの1日誰とも会わないで一人で美術館に行ったり映画を観たりする日に読む本も分かれている。

話がだいぶ逸れたがこの『百年の散歩』は短編集だから①かなと最初は判断したが(首尾よく行けばベルリンを散歩する夢が見られるかもしれないと思った、ベルリンに行ったこともないのに?)、少し読んでやはり⑧でしょうとなった。

そしてさらに言えば、外出するけれど誰にも会わない日の本でしょうと決めた。
東京をさまよう合間に本を読み進めると、本の中では「わたし」がベルリンをさまよっている。
誰に会うでもなく六本木をひとりでさまよっていた私が疲れて本を開くと「わたし」と私は似た様なことを考えている。
声をかけてくるのは、きっとわたしが捜している人ではない。公共の空間に身をさらし続けることに疲れてきた。しめった悲しさが背後に迫ってくる。閉じられた空間、守られた暖かい場所に潜り込みたい。
 この一節を読んで、もう今日はおうちに帰りましょうと自分の足に呼びかけた。

誰と会う約束がなくても、街に出て映画を観て、本を読んで、芝居を観て、孤独を食べ、散歩する。
街全体が本でもあり、劇場でもある。読み手によって解釈が変わる。
「わたし」は行く先々で、見えないものを覗き見る。それはベルリンならではの街の記憶であったりもする。

そしてベルリンのどこにいても絶えず想起され、言及される「あの人」
「あの人」は実在しているのだろうか…と半ば疑いながら読み進めていくと
気が付くと私の「あの人」について考え始めている
東京の散歩者、小さな革命家、私のヴァルター・ベンヤミン
「あの人」は今どこにいるの。
果たしてそんな人本当に存在しているのか。

私も「わたし」もお互い誰とも会わないまま1日が終わる。
会うということがとんでもない僥倖のように感じられてくる。
時間を決めて、場所を決めて、待ち合わせして、約束の時間を楽しみにして、会った後は、そのことを日記に書いて、何度も思い出して
しかし「わたし」はだんだんと諦め始める。
期待して、待っても、今日、あの人はきっとこないだろう。
百年の散歩を鞄に入れて散歩し、時々読むという日々を幾日か経て、私は本を読み終わった。

ベルリンに行く前に読んでよかった。
「わたし」の歩いた道をグーグルマップでなぞり、ストリートビューで見てみたりした。
私は「躓きの石 Stolpersteine」のこともこの本を読むまで知らなかった。ナチスの犠牲者の名が刻まれていて、その人たちがナチスに捕らえられるまで実際に住んでいた場所の前にそれはあるという。躓くたびに思い出すように。

私は田舎に住むことはできないと思う。
主人公と同様に、週末になると匿名の体になりたくてわざわざ都会の、しかも自分の住んでいない地区をうろうろする今の私には。
自分は孤独だと認めてしまうのは気持ちがいい。春だからこそできること。孤独だなんて最悪の敗北宣言ではあるけれど。友達が見つからなかった、恋人が見つからなかった、家族が作れなかった、仕事がない、住むところがない。そうなっても誰もじろじろ見たりしないから、平気で歩き回れるのが大都市だ。
「百年の、」と言いかけると「孤独」と口が言ってしまう。

 一番最後の章で「わたし」と「あの人」の関係性が明らかになって、それまで私は「わたし」を私に引き寄せて読んでいたものだから、私は誰か他人と一緒に暮らせるだろうかと遠い気持ちになった。
一緒に暮らすより、いつまでも街のどこかで待ち合わせたいような気がする。頭の片隅でもう二度と会えないことだってあるかもしれないと思って何度も顔を見ながら話したいような気がする。
もちろん恋の要素がときめきだけではないことを知っている。多くの時間を共有することで作り上げられた親密さとやすらぎには、ときめきの減少を補ってあまりある幸福感があるかもしれない。
でもどこかでときが永遠にめきつづける夢を見てしまう。



『百年の散歩』に登場する通りと広場

本を読み終えた後で、新潮に掲載された多和田葉子と堀江敏幸の対談「ベルリンの奇異茶店から世界へ」を読んだ。
堀江さんが目次裏の地図を、都市の遺伝子情報の顕微鏡写真みたいだと述べているのが面白かった。
散歩者は都市の遺伝子の綻びを見つけては顔を綻ばせ写真を撮ったりする。
フラヌールはドイツ語でいうとFlanierenらしい。
私は旅行先で、せっかくはるばる来たのだから全ての建築を全ての景色をすべてこの目で見てすべて写真に納めなくてはわわわわわわわ状態に陥り、とにかく焦ってしまいがちである。
この夏、ベルリンを訪れたら「わたし」を真似て少しでも百年の散歩をしてみたい。





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