2016年4月6日水曜日

無限パン

目黒の駅近にあるバル

お通しが自家製パン
高田馬場にあるパン屋、馬場FLATでその日焼いたものが食べられる
ライ麦のカンパーニュとか
お通し代は500円で、パンはおかわりし放題

昔はこんな店なかったよなと思ったら、去年できたばかりらしい。

メニューはパンとワインに合いそうな品ばかり
ワインはボトルだと原価プラス1000円

ねぎとろフランスという謎のメニュー

夜に行ったけどランチセットも良さそうだった。
800円でサンドイッチ2つとドリンクとスープとサラダ らしい

向かいにあるceroという名前のワインバーも気になったので今度行ってみよう

庭園美術館に行った帰りや、目黒シネマで映画を観た帰りにでもまた立ち寄りたい


2016年4月5日火曜日

DUMP THE FATTY

『デブを捨てに』という本を読み終わった。
次は何を読もうかな 

君はデブを捨てに行ったことはあるか。

「うでとでぶどっちがいい」と問われデブを選んだ男とデブの物語で、ロードムービーみたいだった。
何かの比喩かと思ったら本当にデブを捨てる話だった。

表題作の他にも幾つか短編が入っている。どのお話も最悪劇場。
終わってる家族ごっこ、産み散らかして愛さない、捨てられるデブ。
どれも人と人とのギリギリの繋がりを描いた小説だった。

マミーボコボコ、その名は耐子。
キラキラネーム10連発にクラクラしてしまった。
ああ、可梨実ちゃん。かなしみちゃん。
なぜボコボコ産むのかと問われて「褒められたいからだよ」
「子供なんか欲しくないよ、ただ孕みたいだけ」

おっさんの「カモやん、世の中はのう、所詮、いんてりじゃんすーの丁半博打や。それと書物。書物を読めへん人間は上にはあがられへんねん。カモやん、書物読める?どっとえろすきー?あんた知ってる?ツミ子とバツ子いうの」という台詞が印象的だった…これが書物に書いてあるのだ

一番気に入ったタイトルは「顔が不自由で素敵な売女」という短編
ファッションヘルス叙々苑のハラミちゃんはハゲている。

『暗くて静かでロックな娘』を思い起こさせるタイトルである。娘はチャンネーと読む。

この人のつけるタイトルはどれも全力でソリッドな感じ
『独白するユニバーサル横メルカトル』
『或るろくでなしの死』
「デルモンテ平山のゴミ映画ビデオ150選」

暗くて静かでロックなチャンネーになりたい

2016年4月4日月曜日

TOKYO is YOURS

正真正銘のお花見をした。

美術館を出て、お金持ちが静かに豪華に暮らしているエリアをさまよい歩いている時にその公園を見つけた。

        



公園には大きな池があり水車小屋があり鯉が泳ぎそしてわび・さびといった風体の桜の木があった。公園のベンチに座って甘いものを食べながらお花見をした。

桜にも見られることに慣れている桜と慣れていない桜があると思う。もちろん桜というだけでこの季節は否が応にも注目を集めてしまうのだが俺を見ろ!みたいな有無を言わさぬ美しさをもった桜もいれば、なるべく見ないでほしそうな恥ずかしがりやの桜もいる。花魁みたいな桜もいれば、村娘みたいな桜もいる。

首尾よくひっそりとお花見しおおせたことに気を良くした我々は、なんと中目黒へ向かった。

 


目黒川の桜並木。有名だけれど初めて実際に観た。
どこまでも桜があって…夢の中みたいな、嘘みたいな景色だった。もちろん人がたくさんいたのだけど、桜の勢いが人の多さを凌駕していて、あまり他の人が気にならない気分だった。



桜はあまり好きじゃないと思ってた。

みんな桜が大好き、そうでしょう?という同調同圧が嫌だったし今までの上手くいかなかったことや新しい環境に馴染めない気持ち、私から去っていった人などを思い起こさせるから、さくら咲かないでと思っていた。

「さくらは生と死の間隙に植わった鬱くしい国の象徴です。紅白幕と鯨幕が相互に交わる時、冠婚葬祭が、或いは盆と正月がいっぺんにやって来る。」桜は祝い…桜は呪い…

それに桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!これは信じていいことなんだよ。何故つて、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。

大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になります…と書いていたのは安吾だったか

でもこの日は桜を見て綺麗だなと思った。初めて日本に訪れた外国人みたいな気持ちだった。桜って綺麗だな。日本に来てよかったな。


   

池尻大橋の方から来て、中目黒を通り過ぎ、途中で桜色のスパーリングワインを飲んだりして、目黒まで歩いた。

東京を散歩するのが好き、散歩をしていると東京は私のものだと思える。私の東京があって、誰かと一緒に散歩をすれば自分以外の東京を知ることができる。

目黒のバルで軽く飲み食いしてからまた歩いて中目黒まで戻った。
夜桜も綺麗で、なんだか信じられないような感じだった。さくら咲くなんて。

いつかも誰かと桜並木の下をこうして歩いていたような気がする。
繰り返される諸行は無常

                      


桜を見すぎて最後の方はこれも桜に見えた。

   


俳句を詠みました。 

 花曇目蓋はあるけど耳蓋はない

2016年4月1日金曜日

Kinder Than Solitude

時々、昔は親しかった人たちに会いたくなる。

それは何かを目にしたことをきっかけに始まることが多い。
例えば、もういくら拭いたところで本当には綺麗にならない鏡、漏れ出して機能しなくなるほど決定的ではないがたしかにひびが入っているマグカップ、爪先がまだ乾いていないタイツ、足の甲がほんの少し破れているムートンブーツ、電池を換えればまた元のように動き出すのであろう腕時計とか、そういういつも目にしている日常品のうまく行っていない部分、機能のほころびに気が付くときなどがそうだ。

例えば、別れてしまった恋人とは、もう二度と会えないのだろうかと考える。
もし会えたとしても、まるで別人みたいで昔のように気持ちが通い合うことはないだろう
昔は気持ちが通い合っていたというのもただの私の思い込みかもわからない。
自分以外の人の気持ちは、本当には一生わからない。

昔の恋人というのは一例で、誰だって思い出すのをやめられないわずかな人たちがいるだろう。

人生は短く、人の気持ちは移ろう。
過去は過去でしかなく、私が生きているのは今だということは理解している。すでに終わったことを一人でずっと考えて悲しくなっていても仕方がない。内にこもった悲しみは、ただ毒になるだけだ。
それでも過去のことをあれこれと思い出すのをやめられない。

中国の出身で今はアメリカで暮らしている作家、イーユン・リーの小説『独りでいるより優しくて』を読み終えた。

四人の登場人物たちは多感な時期に起きたある事件によって"服毒"する。それぞれ心に過去の重荷を抱えたままその後の人生を歩んだことによってゆっくりと毒が回り、孤独の中で身動きがとれず、誰とも心を通わすことができない状態になっている。

一人は、仕事で成功しながらも、無残な終わり方をした初恋と友情を引きずり、誰とも親密な関係を築けないまま、若い女の子のシュガーダディ役を自嘲的に演じている。事件が起きた北京で暮らし、もうここにはいない2人の女性のことを考えるのがやめられない。

一人は、アメリカへ行くために結婚し、離婚し、結婚し、離婚し、誰とも親密な関係を築くことのないまま、むしろそれを唯一の財産として生きている。自分に関心を持ち関わってこようとする者を遠ざけ時には破壊することを厭わない。望めば自分なら手に入れらることを知りながら、何も望まない。

一人は、本当は独りでは生きていけない性質なのに、異国で自分を愛してくれる人と巡り合うことができたのに、自分を罰するかのように孤独に生きることを選択し、二度と中国には帰らない。幸せは全て過去にあり、ここではないどこか他の場所で起こる自分ではない誰かの物語を空想することだけが心の癒しだ。

一人は、もう何も考えることができず、自分の人生に対して何も言えないまま、一生を終える。彼女が何を考えていたのか、もう誰にもわからない。自殺したのか?他の三人のうちの誰かに殺されたのか。彼女の死により、残された三人の人生が動き出す。この物語はミステリの形を取っていて、真相はぎりぎりまで明かされない。

リーのこれまでの著作は、邦訳されたものは全て読んでいる。
簡潔なのに密度が高い文章で、一つ一つの文を読んで自分の中に通すのに時間がかかる。
デビュー作『千年の祈り』やそれに続く『黄金の少年、エメラルドの少女』のような短編集だと、その密度の高さが短編なのに壮大な長編を読んだかのような気持ちにさせてくれるのだが、そのままのクオリティで今作や前作『さすらう者たち』のような長編になると、たしかに存在する他人の人生に軽い気持ちで触れてしまったかのような、知らずに生きていたかったことを知らされた時のような、重々しくて受け止めきれないような気持ちになる。

どの作品でも「孤独」が一つのテーマであると思う。
テーマというよりは、抗議としての孤独を選ぶ人たちの物語だ。
孤独と言ってもsolitudeとlonelinessは違う。彼女が繰り返し描くのはsolitudeの方だ。
lonelinessは感情的な寂しさであり、solitudeは自分で選んだ状況である。
孤独は楽しめるけれど寂しさは楽しめない。

私はいつも彼女の書く小説を読むと、様々なことを考えて気持ちが滅茶苦茶になる。
飛び散った気持ちや思考を整理して把握し、箱に仕舞うために感想を書いている。

物語を通して登場人物たちは様々なことを私に問いかけてきた。
「どうして誰も彼もが、ただそうしたいからっていうだけで誰かの人生を変えていいと思うの」
「二人の人間に純粋な関係なんてあるの」
「人はどうすれば他人のことがわかるのか」
そういった質問に慣れていない私は、質問のたびに戸惑ってページをめくる手が止まってしまった。

私も昔は、人は深い悲しみを知ると凡庸でなくなると思っていた。
だから、自信喪失で損なわれたり世の中への不信で腐ったりしていない若い心だけが持っている気楽さで、絶望や不幸に憧れたりもした。この小説に出てくる黙然という少女と一緒だ。
黙然はモーランと読む。読み始めた時はすごく重々しい名前だなくらいにしか思っていなかった。彼女がアメリカで新しい暮らしを始めるにあたって"ラーラ"という名前を自分につけたのもわかると思った。黙然ではなくラーラだったら、どこへでも行けそうだし誰とでも新しく恋に落ちることができそうだ。
読み終えてみれば非常に意味のある名前だった。

訳者によるあとがきに登場人物たちの名前の漢字は邦訳にあたり全て作者が指定したのもだ、と書いてあった。リーは英語で小説を書いている(英語でしか小説を書いたことがない)。また彼女の小説は、母国語である中国語では翻訳されていない。
つまり、登場人物たちの名前の漢字を味わうことができるのは日本の読者の特権なのだろうか。もしそうなら少し嬉しい。特に如玉という名前は美しいが冷たい彼女という人間をよく表していると思った。ユールイと読む。

如玉の行動を知って、ただ黙っていることができなかった過去の自分をずっと責めている黙然はこう考えている。
できるだけ浅くしておいた根をいつでも引き抜けること、気づかれも惜しまれもせずに出て行けること、これらによって処女みたいな自由を守ることができる、と。
誰かや何かを気にかけることのすべてが心を乱す。無欲であれば強くいられる。

それはその通りかもしれない。
私だって、愛や別れがもたらす孤独や悲しみに対して免疫を持ちたい。強くなりたい。傷つきたくない。
この小説の彼女のように、他者と距離を置き、自分に深く踏み込んでくるものは破壊し排除していけば、たしかに心の安寧は得られるだろう。

常に不安がある。心を開いてもこの人もいずれ去っていくのではないか。
激しい幸福感の後には必ずや絶望や喪失感がついてまわるのでは。
心なんて、一生不安。

好きな人には、今だけでなく過去も未来もある誰かだと見られたい。自分が連続した存在だと主張したくなる。

何か過去の自分について話そうとして思い返すときの人生は単純化され、逸話の集まり程度になっている。まるでどこか観た映画の記憶みたいだ。
人を好きになると、お互いの過去のエピソードを交換し合うように話したり、未来への希望を口にしてみたりするのはその欲望のせいだと思う。叶わないと知りながら二人の恋人同士は連続性の幻影をちらと見るのだ。

この長い小説を読んでいる間、そういった今までの人生の記憶が、過去のことなのにまるで現在のことかのように不意にやってきて擦過していって、打ちのめされた。
小説の終わり方は少し優しい。

重い過去とは裏腹に、活き活きと情緒豊かに描かれる北京の街の情景が鮮やかだった。
四号院が並ぶ胡同の路地裏、広大な天安門広場、北京駅、前海のほとり。
街の人々は言う、今度の秋は北京に恋をするから待っててごらん。
それに対し、どんどん変わって行く現代の北京の様子。
私は北京へ行ったことがない、いつか訪れる時この小説の描写のことを思い出すだろうと思った。

2016年3月30日水曜日

4月の気になる展示メモ

●「コンデナスト社のファッション写真でみる100年」展
~4/10@銀座・シャネルネクサスホール

●「六本木クロッシング2016展: 僕の身体(からだ)、あなたの声」
~7/10@六本木・森美術館
備考:年間パスポートが4/25に切れる

●佐藤雅晴「東京尾行」
~5/8@品川・原美術館

●馬鑑(うまかがみ)山口晃展
~5/29@横浜・馬の博物館

●ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 わたしの国貞
~6/5@渋谷・Bunkamura

●カラヴァッジョ展
~6/12@上野・国立西洋美術館

●「耽美・華麗・悪魔主義 谷崎潤一郎文学の着物を見る - アンティーク着物と挿絵の饗宴 -」展
~6/26@根津・弥生美術館
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yayoi/exhibition/next.html

●ライアン・マッギンレー BODY LOUD!
4/16~7/10@初台・オペラシティ

2016年3月29日火曜日

少し友人

辺りは暗くなり、私たちは何か少し食べたかった。
駅から暗い方へと歩いていたら、陽気な響きのカタカナの名前のお店があった。
お店の中は全く見えなくて、ちょっと入りにくいスナックみたいな店構えのスペイン風居酒屋、勇気を出して入ってみた。

入ってみれば、お店の中もスナックみたいだった。店主らしきおじいさんがスナックみたいなソファの一角に座って、テレビで時代劇を観ていた。やってますか?と思った。おじいさんは私たちが入ってきたせいで少し慌てたように見えたが、どうぞと言われて座った。

壁は、スペインっぽい飾りやポスターなどで覆いつくされていた。
しばらくするとおじいさんがそれまで観ていた時代劇ではなく、いかにもスペインっぽいギターの演奏やフラメンコの映像がテレビで流れ始めたので、スペインの風吹かしてきたなと思って可笑しかった。

なのに箸置きがこれだった。

あなたはスペインですか?私には日本の河童に見える。

鏡が駆使されてどの席にいてもテレビの映像が見えるようになっていたのも面白かった。

メニューを開くと罫線のあるノートに手書きだった。
第一印象として、スペイン風居酒屋なんだからもうちょっとスペインの風を吹かしてもいいのではと思ってしまうようなメニューだった。

今、お店のことが知りたくて「最寄駅の名前、スペイン、居酒屋」で検索してみたら、食べログのレビューが出てきた。私はもう何でも検索してしまうし、何についてもレビューがあることに慣れている。そのレビューのタイトルは
「料理うんぬんじゃない店」
笑ってしまった。同じ感想です。

レビューを読むと、
 “そして店主の「おっさん」。
  この「おっさん」がこのお店の最重要ファクタです。”
と書いてあり、さらに笑ってしまった。その通りです。

最重要ファクタは頭の一部みたいにキャップをかぶっていて、愛想が良くも悪くもなく、ただそこに存在していた。
私もいつか、ある空間の最重要ファクタになりたい。
今一人で暮らしている自分の部屋だって、最重要ファクタは私ではないと思う。
私がいてもいなくても成立する。

かなり長い間、私たち以外に客は来なかった。
あまりにもスペインの表象に四方を囲まれていたため、「スペインには行ったことがある?」「ガウディの建築をいつか観に行きたい」くらいの浅い会話を一応したりもしていると、ドヤドヤと人が入ってきた。
一目見て「おっさん」の仲間たちだとわかった。

「おっさん」の仲間たちはディープなスペインの話…というよりは「その界隈」の話をしている雰囲気で、時々「フラメンコ」とか「なんとカかんとかスの公演」とか聞こえてきた。
お店は時々フラメンコやギター演奏のライブをしているらしかった。気が付けば「おっさん」も仲間たちに混ざって飲んでいた。

私はスペインについてあまり良く知らない…
行ったことがないし、スペイン人と話をしたこともない。
スペインの映画は時々観る、例えば、アルモドバルとか。
あとガウディ…以上です。

私の知っているスペイン語について少し書く。
私は平日の朝は、7時半から始まるフランス語の勉強のラジオ番組を聴いている。
それまではニュースのチャンネルを聴いていて、7時25分くらいになったら語学番組のチャンネルへと切り替えるフランス語を勉強する番組の前はスペイン語を勉強する番組がやっているので、結果的に毎日5分だけ、終わりだけ、スペイン語の番組も聴くことになる。
番組の最後に大抵スペイン語の先生は明るい声で言う、「アシタマニア〜ナ!」

私はスペイン語について何も知らないが、この明日まにあ〜にゃは「明日また会おうね!」という意味だろうという強い確信があった。だって明日って言ってる。
すぐには意味を検索しなかったが、ある日耐え切れなくなって意味を検索した。
やはりそうだった。アシタマニアーナはそれじゃあまた明日だったのだ。
これでスペイン語の先生に挨拶を返すことができる。
でももっと調べたらアシタがまたという意味でマニアーナが明日という意味だったので私は混乱した。

「おっさん」はきっとスペインが好きで、スペインに行ったことがあるのだろう。私よりスペイン語を知っていると思う。
もしかしたらギターを弾いたりスペインの歌を歌ったりするのが上手いのかもしれない。昔歌手だったのかも。
その界隈の人たちに有名なお店なのかもしれない。
あるいは一度も本当にはスペインに行ったことがないのに、こういうお店をやっているというのも面白いかもしれない。

今、お店の名前の意味が知りたくて、google翻訳先生に訊いてみたところ
「少し友人」
と返ってきたので笑ってしまった。
今はまだ、少し友人。

桜の樹の下には死体が

中野にある哲学堂公園に"花見"に行った。
桜はまだあまり咲いていなかったけれど、"花見"の人は沢山いたので"花見"という感じだった。

私たちは主に木を見ていた。一番長く見たのはヒノキの木だった。
全ての木には番号がついていた。管理社会だ。
"木見"では語感が悪いので、これは"森見"かなという話をした。
"花見"の人たちだって、食べたり飲んだり笑ったりするのに忙しく、あまり花は見ていなかった。
小さい人たちは、もっと花など見ていなくて、枝や石を持って走ったりしていた。
私はもう小さい人にはなれない。

 大きくなって
 小さかったことのいみを知ったとき
 わたしは〝えうねん〟を
 ふたたび もった 
 こんどこそ ほんたうに
 はじめて もった
 誰でも いちど 小さいのだった
 わたしも いちど 小さいのだった

という吉原幸子の詩を思い出していた。喪失ではなく。

人々は桜を探していた。私たちは老子を探していた。
この広い公園で老子を探しているのは私たちだけだろうという自信があった。
老子に一目会いたかった。私は老子を知っているが、老子は私を知らない。なので私が会いに行くしかないのだった。

哲学堂公園には、哲学者が一堂に会す庭がある。哲学者というか昔の有名人の集まり。そこに老子はいた。

老子だけではない、キリスト、ハムラビ、シャカ、アブラハム、聖徳太子にガンジーだっていた。
私は笑ってしまった。

彼らはそれぞれ決めポーズがあって、頭身もバラバラで、思想もバラバラなのになぜか向かい合って円陣となって、私たちに笑われている。



日本人になって死ぬまで日本で暮らした、元々はハンガリー人の彫刻家の作品だという。
ワグナー・ナンドールという人。和久奈 南都留と名乗っていたらしい。和久奈さん。
同様のものがブダペストにもあるという記述を読んで、もっと笑ってしまった。
こんな変な空間が他にもあるのか。それって大丈夫なのか。


私は探していた老子よりもアブラハムにウケてしまった。おしり。
お祈りポーズ。




これは聖徳太子。ながーい。
私は小学生に日本の歴史の授業をしてお金をもらっていたことだってあるのだが、「聖徳太子って誰。知らない」と言われてちょっとまごついてしまった。聖徳太子を知らない人と話したことがあまりなかったからかもしれない。
そう言われてみれば聖徳太子って誰なんだろう。
「昔の…日本の…政治家で…沢山の人の話を一度に聞けた人…」



これが夢の共演ってやつか。


 YO

  ガンジー は ほそーい



哲学堂公園ははちょっと変な公園。
宇宙館ってなに。いろいろ何。妖怪門という門も通った。


いつか公園を作りたいと思いました。とても変な公園にしたい。