2016年9月17日土曜日

Aujourd'hui le monde est mort


早く世界が滅亡しますように。

そんなことを呟く人だって、本当に世界が滅亡してほしいわけじゃないと思う。

いや滅亡してほしいという願いの気持ちはリアルなんだけど、滅亡の部分にリアリティはないというか。
自分が消えてなくなってしまいたいという気持ちに世界を巻き込んでいるだけ、
ありがちな絶望を端的な言葉で表しているだけ。

それにしても世界の終わりという重々しい言葉が、それを名前にしたバンドが流行って人口に膾炙しているのってちょっと面白い。ポップに省略されてそれ本来の意味から離れてただのバンド名として気軽に口にされている。せかおわ。

今日、世界は終わっちゃいました。もしかしたら昨日かもしれないんですけど。
そんな感じがする。

世界の終わりがそこで見てるよと紅茶飲み干して君は静かに待つ?

世界の終わりを願ってもしょうがない、そんなことは現実逃避に過ぎないということはわかっている。
この世を壊したって~一番ダメな自分は残るぜ~とオーケンも歌っている。

そんな願いに呼応あるいは警告するかのような、ありとあらゆる世界の終わりを提示する展示、“杉本博司:ロストヒューマン”を観てきた。



“今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない”

この印象的なフレーズとそれに続く様々な職業の最後の人類による遺書のテクスト、杉本自身の作品に加え、杉本の蒐集したコレクション(化石、古美術、歴史的な資料など)などによって構成される文明の廃墟のインスタレーション。

パリのパレ・ド・トーキョーで行われた“Aujourd'hui le monde est mort [Lost Human Genetic Archive]”という展示の東京バージョンだという。
直訳するなら、“今日、世界は死んだ[失われた人類の遺伝子保管場所]”みたいな感じかな。
この展示を東京で観ることができて嬉しい。

写真美術館のような、基本的に写真の展示を目的とした展示空間(しかもリニューアルオープン仕立てで新しく綺麗な)にはあまり似合わない展示内容なのではないかと思っていたが、その予想を覆して継ぎ接ぎしたトタン壁で構成された空間は、鑑賞者を彷徨わせ、様々な文明の終焉に想いを馳せる廃墟の空間と化していた。

展示は杉本の代表作の《海景》から始まる。
「太陽系の第3惑星地球には大量の水が存在し、5億5千万年ほど前から水中での有機物による爆発的な生命現象の連鎖が始まった。生命は人類にまで進化し、今回の2万年程の間氷期の間に文明の発生を見た。しかし様々な困難により文明は衰退し、そしてそこに残されたのは文明の廃墟だった。」
ただ海がずっとあるということを写真に撮るとこんな感じで、文章にするとそんな感じか

この展示の面白いところは、杉本の考える様々なこの世の終わりのシナリオが、様々な職業の人物の肉筆によって代筆され、掲示されているところだ。
作品リストに加え、代筆者のリストもあった。

リストの頭には杉本による『肉筆考』が記されている。
“肉筆は字面の姿の上に、その文意以外の読み取る徴を宿している。”
だからこそ
“文明の終わりは肉筆で書かれねばならない。文明が終わる時こそ、その始原の姿が現れるのだ。”

ちょっとわかる。
よく知っていると思っている人の肉筆を知らなかったりする。
時々Twitterが全部肉筆だったら、という想像をたまにする。

肉筆で様々な職業の人物が世界の終わりを物語る。
例えば、人類最後のコンテンポラリー・アーティストはこう語る。
「今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。
後期資本主義時代に世界が入ると、アートは金融投機商品として、株や国債よりも高利回りとなり人気が沸騰した。若者達はみなアーティストになりたがり、作品の売れない大量のアーティスト難民が出現した。
ある日突然、アンディー・ウォーホルの相場が暴落した。
キャンベルスープ缶の絵は本物のスープ缶より安くなってしまった、そして世界金融恐慌が始まった。
瞬く間に世界金融市場は崩壊し、世界は滅んでしまった。
アートが世界滅亡の引き金を引いた事に誇りを持って私は死ぬ。
世界はアートによって始まったのだから、アートが終わらせるのが筋だろう。」
このテクストと共にキャンベルスープ缶が1カートン展示されていた。
これをロバート・キャンベルさんが書いているというのも可笑しい。
難しい漢字も上手で感心した。

アーティストだけでなく人類最後の美術史家もいた。
「現代になって、人は表現する対象を失ってしまった。自然への畏怖や神の姿、いや、美そのものが陳腐化してしまったのだ。すべての芸術はパロディー化してしまった。
私は美術史に携わる学者として、芸術の終焉に立ち会えたことに喜びを感じる。アートのない人類なんて、信者のいない神のようなものだ。」
この言葉が今回の展示を観ている間、自分の中で響いていた。すべての芸術はパロディー…アートのない人類なんて、信者のいない神…

人だけでなく人形の物語もあった。
一列に並んでこちらを見ている文楽人形の生首がカクカク動いたり、バービー人形とか後を引く気味の悪さがあった。
大量に敷き詰められた卒塔婆とレンチドールの妙な目つきが忘れられない。

アンジェという名のラブドールもいた。
「今日、世界は死んじゃいました。もしかしたら昨日かもしれないんですけど。
私は男に愛されるためだけに生まれてきました。私の名前はラブドール・アンジェ。
女の社会進出は果てしなく広がり、大統領や財閥経営者などの要職はほとんど女という、女尊男卑社会が生れました。男は女に性的な魅力を感じなくなり、対女性萎縮症候群と呼ばれる症状を示しました。
男は性的対象を理想化したラブドールに求め、私のようなかわいい、生身肌のラブドールが生まれたのです。
滝の写真とガス灯を持って来た老人が、私を最後に愛してくれた人でした。
でも、ごめんなさい、私達は不妊症。そして、この世に、人は生まれなくなったのです。」

何となく『この世界には有機人形がいる』という漫画の世界観を思い出した。

すごく独特なフォントのような束芋の肉筆が印象的。前に個展で肉筆の文章を見た時はここまで独特な字ではなかったような気がするので人間ではない者が書いた文章としての役作り(?)かな。すごく素敵な字でした。
テキストの上にはマン・レイによるマルセル・デュシャンのポートレイトが飾られていた。
パリの覗き部屋のような窓から小さな部屋を覗くと、横たえられた美しいラブドール(オリエント工業のアンジェという製品)、後ろの壁には杉本博司の《ジオラマ》。
デュシャンの遺作、《落下する水、照明用ガス、が与えられたとせよ》のオマージュかもしれない。

ちなみにデュシャンは生前から自分の墓碑銘を考えていて、その言葉は実際に彼の墓に刻まれているという。
「そして死ぬのはいつも他人」

5月に銀座のヴァニラ画廊でやっていた人造乙女博覧会という展示を観に行った。
その時初めてラブドールの肌に触れた。おっぱいより二の腕より太ももより、足の指の触り心地がヤバくてなんというか…えも言われぬ心地良さがあった。
最近のラブドールはオプションで肌の下に透ける血管のメイクまでしてくれるらしい。視線も動くという。

さて、文明の終わりを見届ける建築家、これは絶対にいると思いながら展示を観ていたのですがやはりありました。
代筆者が磯崎新だったんだけど、自分が考える文明としての建築の終わりのヴィジョンについての文章を、それを作ってきたと言っても過言ではない磯崎新に代筆させるのってめちゃめちゃ緊張するな…と思った。
他の代筆者は必ずしも本人の職業と一致する文章を書いていたわけじゃないので気になった。

すごく印象的だったのが、“耽美主義者”のコーナーにあたジャック=ファビアン・ゴーティエ・ダゴティの解剖実験の絵。
女性の背中が花開くように切り開かれ、血と肉と骨が覗いている。その姿はむしろ艶めかしささえ感じさせ、大変グロテスクな表現なのに思わず見惚れてしまう。
以前、森美術館で行われた医学と芸術展で、ダゴティの授乳している裸婦の子宮断面図や妊婦の解剖図などを観て「エロ漫画の断面図表現って昔から需要があったんだな~」と思った。
医学の名の元に秘かに追及されてきた人間の暗い欲望、白い女性の肌を切り開いてその中身を見たいという強い欲求を可視化したような解剖図に、文明の破滅も忘れて魅せられてしまった。リアルなふたなり絵もあったよ。


上に挙げた以外にも
・人は根源的に人を殺したい、人間は理想という名のもとにおいてはどんな惨たらしいことでもする、理想主義と理想主義の殺し合いで滅ぶ世界(硫黄島より見つかったジャップ・ハンティング・ライセンスの展示と共に)

急に隕石が地球に激突して原発が破壊され放射能にまみれ滅亡する世界(様々な実際にこれまで地球に落ちてきた隕石の展示と共に)

突如として若い男性の性欲がなくなり勃起不全になり女性はパニックに陥り高齢者の生殖能力回復薬に望みが託されるも結局は滅亡する世界(牛乳箱に入った大量のバイアグラの展示と共に)

太陽系が宇宙空間に存在する電磁嵐帯に突入し世界中のコンピューターと電子機器が使用不能になりすべての交通と通信の手段が途絶えすべての生産と流通が止まり人類が餓死する世界(マッキントッシュSEの展示と共に)

遺伝子操作と胎児診断の技術が発達しIQ200以下の子供は出生させていはいけないことにした結果、人類が聡明になりすぎて虚無感に苛まれ経済活動も委縮、滅亡していく世界

・安楽死が推奨され、得も言われぬ幸福感に満たされて死ぬことのできるLSDの供与や、安楽死協会製作のプロモーションビデオ「死ぬ程気持ちよいことはない」の効果により、死の悦楽は人の心を捉え、そして誰もいないくなる世界(30分に1回、Aujourd'hui le monde est mortと喋るオウムの剥製の展示と共に)

などなど様々な文明の廃墟が展示されていた。
それぞれのシナリオは、どこかで聞いたことがあるような、既に小説や映画や時には現実においても語られてきたような話が多いけれど、その世界観に没入した状態で展示品を鑑賞するという面白い体験となっていたと思う。どのテクストの結びの文章が印象的だった。諦念、恐怖、後悔、絶望、喜び、疑問…

33の世界の終わりのシナリオに打ちのめされ、ありとあらゆる方法で世界が終わったと感じた後、下の階の展示室へ行くと、そこには何も映っていない廃墟と化した映画館の写真が暗闇の中でぼうっと浮かびあがっていた。
世界初公開の《廃墟劇場》という作品。
《劇場》というシリーズは1970年代から制作していて、私も概要は知っていた。
廃墟と化したアメリカ各地の映画館で、8×10の大判カメラを用いて上映1本分の光量で長時間露光し、驚くほど精緻な仕上がりのプリントをする。
何も映っていないかのように見える白いスクリーンは、時間と光の記録であり、物語のシーンの集積なのだ。
なんかそれってすごく人生っぽいなと思う。
私は映画館で映画を観るのが好きだ。映画館で観ないのであればそれは映画を観たとは言えないと思う。ストーリーの把握ってやつだ。あと人間は根源的に暗がりで明るい光を見つめるということが好きだと思う。だから映画館はなくならないで欲しい。できればみんなで映画を観たい。
だからこの《廃墟劇場》の写真を観ると、これまで観てきた映画のことを考えて時間の多層さみたいなものについても考えて処理がしきれずにぼうっとなってしまう、それでなんかすごく「人生…」という気持ちになるのだ。気がつくと映画館は廃墟になっている。

写真の撮影時に上映した映画についての作家の解説文が床に照らすように掲示してあって、まるで映画のスクリーンが発する影のようだった。

今回の展示で繰り返し用いられている「今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない」というフレーズは、『異邦人』の冒頭「今日、ママンが死んだ、もしかすると昨日かもしれない」から取ったらしい。
世界が終わるときって、今日突然終わるとかじゃなくて、ある日突然「いつからかわからないがもう世界が終わっている事に気づく」んだろうな、と妙に納得をした。彼氏と別れる時とかもそうだし、きっと終わりってそういうもんなんだろう。

ふと、展示室を対角に仕切った壁の向こうに何か違う世界があると気づいて足を踏み入れたら、無数の仏像の写真が飾られていてびっくりした。あの世に来ちゃったかと思った。
新作の《仏の海》というインスタレーションだった。
勿論この光景は知っている。京都の三十三間堂の千手観音だ。実際に観たこともある。
仏像を見るということは信仰のほとんど失せてしまった現代人にとってはどのような体験なのだろうか。
ということがテーマの一つであるらしい。
私も無宗教だけど、世界が終わったら案外すがっちゃうかもしれない、仏。と思わせる迫力がありました。

世界の終焉について考えながら展示室を出て来たら、下の階では世界報道写真展をやっていると知って「現実じゃん…」となった。報道写真展、毎年観ているが、なんだかロストヒューマン展の後に観る気にはなれなかった。10/23までやっているのでまたで良かろう。

展示室内は廃虚と終焉の様相を呈していたが、リニューアルオープンした東京都写真美術館は、白くて明るかった。
改修のため閉館する前は、東京の美術館の中でもよく行くところトップ5に入っていた場所なので感慨深かった。
今後の展示も面白そう、年末にアピチャッポン・ウィーラセタクンとか。
1階に新しく代官山のMAISON ICHIができていたので、今度利用してみたい。
ただいくら推してもTOPという愛称、浸透しなさそう。

杉本博司といえば、建築家の榊田倫之と共に熱海のMOA美術館のロビーと展示室の改修を手がけていると最近知って気になっている。
こちらもリニューアルオープンが待たれる。

2017年に小田原市にできる江之浦測候所も気になっています。
現代建築でありながら古代遺跡のようでもある。


IMAの2016秋号に今回の杉本博司展の特集があり、インタビューやキーワードの解説、杉本の来歴や思考のベースとなっているであろう図書の紹介などがあり、今回の展示の理解を助ける。

「写真」にはいかなるプロタンシオン(未来志向)もない。「写真」の悲壮さやメランコリーはここから来る。
「写真」は停止しているので、そのプレザンタシオン(現示作用)は時間の流れをレタンシオン(過去指向)に変えてしまう、というようなことをロラン・バルトが『明るい部屋』に書いていて、なんだか小難しいけれどようするに思い出はいつも綺麗だけどそれだけじゃお腹がすくわ、ってことでしょ?と適当な解釈をしていたが、それが映画を写真にする杉本の作品と結びつけて書いてあって面白い。

あー世界の終わりかあ。私は終わりに立ち会うのかな。
気がついたらもう終わっているのかも。

明日世界が終わる日に 一緒に過ごす人がいない (穂村弘『求愛瞳孔反射』)

2016年9月12日月曜日

極北の郊外風景

私はあまり昔のことを覚えていられないから、すぐ今が一番うれしい・楽しいと感じてしまう。
その逆もまた然りで、すぐ今が一番つらい・苦しいと感じるので、もっと積み重ねてきた経験というものを活かして正しく現状を認知してくれよと自分に言いたくなる。

毎年夏は終わる。私は夏が終わると一つ歳を取る。秋は大人の始まりだ。

誕生日に、誕生日プレゼントを貰った。
今まで貰った誕生日プレゼントで一番うれしい!と思った。もちろん今までだってうれしかった!けど、今が一番うれしい!という気持ち

何を貰ってそんなに嬉しかったかというと、
『Hyper Ballad―Icelandic Suburban Landscapes』
ホンマタカシが90年代のアイスランドの郊外の団地を写した写真集。

ブックデザインはマイク・ミルズ
このタイトルはビョークの曲名から取ったのだろう。
『東京郊外』と同時進行で制作されたものだという。
ずっと欲しかった。

帯欠だけど状態は良いし、付録の撮影ポイントの記されたマップも付いていた。
これを手に入れようと思ったら、大概は元値の数倍の値段で古本を買うしかない。
私が喉から手がでるほど欲しがっていることを知っていて、東京の古本屋を探し回ってプレゼントしてくれたのだと思うと、本当にうれしい。

2年前の冬、初めてアイスランドへ行った。以降、彼の地の虜である。

アイスランドの景色が好き。見渡す限りの火山岩。巨大な滝。あまり木がない。苔がある。
海そして雪山。激しいオーロラの動き。
そういった大自然も好きだし、レイキャヴィークの街並みも好きだ、色が可愛い。
自然とハイセンスなデザインが同居している。
きらびやかなガラスの現代建築の背景に海と雪山が同時に見える。
そこがレイキャヴィーク周辺の他にはない魅力だと思う。

レイキャヴィーク滞在中、郊外のショッピングモールまで歩いて行った。
行く途中、沢山の団地を通り過ぎた。次々と現れる日本の団地にはない配色・デザインに夢中になって写真を撮った。
アルバムを見返すと団地の写真だけで似た様な構図の写真を何枚も撮っている。シャッターの回数は興奮のバロメーターなので…


写真家のホンマタカシがアイスランド郊外の団地を撮った写真集を出していることを知ったのは帰国してから。それからずっと欲しくて探していた。ホンマタカシの建築写真は結構好き。

澄み切った青い空に素敵な色に塗られた団地群。
そこで暮らす人たちのことを考える。
これからはこの写真集をいつでも好きな時に眺めることができる。うれしい~

さて、私が他にも持っているアイスランドの写真集の話がしたい。

1.『Iceland / small world 』Sigurgeir Sigurjonsson

これはアイスランドを旅行した時に、地熱発電所のお土産物屋で買った。
アイスランド国内では有名な写真家のようだけど、国外にはあまり流通していないのかな。
10.5センチ角、手のひらサイズの写真集だけれど、300ページ以上のフルカラーでかなり厚い。
何も無いところにポツンと建っているカラフルな家…
アイスランディックホースのニヒルな笑みも良い。

2.『wonder Iceland』keiko kurita
これは大阪のカロというかわいいブックカフェで見つけて買った。
正方形にトリミングされたインスタグラムみたいなかわいい写真。
アイスランドの日常という感じ。

3.『BIRD』
写真集ではなく旅雑誌だが、この雑誌に載っている写真を見て私はアイスランドに魅せられ、旅に出ることを決めた。
特に印象的だったのは表紙の稲岡有里子という写真家の幻想的な写真。
特集を読んで、ここに行かなきゃと思った。

4.MR-DESIGN / BATH ART
そしてこれは私が風呂に貼っているポスターです。
レイキャヴィークの街並みを市橋織江が撮ったもの。
ハットルグリムスキャルキャ教会から撮ったのだと思う、というかそれ以外に高い建物はないのだ。私も教会へ行き、上へ登って同じ風景を眺めた。
帰国後、あの景色が恋しくなってこのアートピースを買い求めたのだった。

アイスランドは遠い。
初めて行ったとき、ずい分遠くまで来てしまったな…と思った。今までに行った一番遠いところかもしれない。
日本から直通便はないし、行くだけで1日使ってしまうから、なかなか気軽に行けない。
でもまた絶対に行きたい。
心の一部を置いてきたという感じがする…なんて大袈裟な。でも何の縁もゆかりもない地なのに、一度訪れて数日滞在しただけなのに、私の中でつらい時に思い出す心のふるさとのような場所となっている。

それだけの魅力がある国だと思う。

写真集を贈ってくれた人の欲しい本を知った、今度は私がその本を探す旅に出よう。



2016年7月4日月曜日

ぽんぴ

フォントがかわいい

東京都美術館でやっているポンピドゥー・センター傑作展に行った。

その日はよく晴れていて、上野公園には人がたくさんいた。
水で地面に絵を描いているおじさんがいた。
立ち止まって観ていたら話しかけられて、私たちのために次々と絵を描いてくれた。
沢山の絵を描いてスッと立ち去るおじさんの後ろ姿と、乾いて徐々に薄くなり消えてゆくおじさんの描いた絵をちょっと不思議な気持ちで眺めていたら、隣に立っていた知らない男性が「ディズニーランドで働いていたらしいですよ」と突然教えてくれて、「なるほど…」となった。

去年、初めてポンピドゥー・センターに行った。
エスカレーターをどんどん上って、パリの街を眺めた。
ポンピドゥー・センターの隣にも公園というか広場と噴水があって、地面で絵を描いている人がいたなあと思いだす。

ポンピドゥー・センターはレンゾ・ピアノとリチャード・ロージャスという建築家が駆け出しの頃にが設計した建築で、パリの現代建築を語る上で外せない存在と言っても過言ではないと思う。ずっと実際に観てみたいと思っていたので、感動した。
ずっと写真で眺めてあれこれ想像していた建築を実際に目の当たりにするというのは何度経験しても興奮する。生きててよかったレベル。
建物だけでなく、常設のコレクションの質の高さにもくらくらした。
時間があまりなくて半ば小走りで観て回った。

ポンピドゥー・センターの建物の写真をたくさん撮った

今回観た展示はそのポンピドゥー・センターの近現代美術コレクションから、1年ごとに1作家1作品を選び、1906年から1977年のタイムラインを辿るというものだった

作品だけではなく作家のポートレイトと残した言葉が展示されていて、そのためか、一作家につき一点しか作品がなく美術史を駆け足でおさらいするような展示なのに、それぞれの作家の個性が際立つというかそれぞれが印象に残る良い展示だったように思う。

会場構成が斬新というか、普通特に絵画などの平面作品は展示室の壁に掛けられて展示され、鑑賞者は部屋をぐるっと回るわけだけど、今回の展示では展示室の中に仮設の壁を自由に配置して、そこに沿って鑑賞者は動く。
各階はトリコロールで塗り分けられ、1階はまっすぐ、2階はジグザグ、3階は円を描くという構成で、動線的にはどうなのという気もしたけれど面白かった。
会場構成を手掛けたのは建築家の田根剛とのこと。
そういえば前に21_21で観たフランク・ゲーリー展でも彼がディレクターを務めていたなあ。

ピカソ、マティス、デュシャンなど有名な作家の有名な作品が沢山展示されていた。
どれもフランス人かフランスで活躍した作家。
絵画や彫刻に留まらず、建築やデザイン、映画、シャンソンまでも展示されていた。

時々知らない作家の作品もあり、それも面白かった。
一番気になったのは霊媒画家、フルリ=ジョゼフ・クレパンの絵だった。
ひと目見てヤバいと思った。

フルリ=ジョセフ・クレパン《寺院》

「寺院」というタイトルでたしかに左右対称の構図でインド風な寺院らしき建物が描いてあるんだけど、空に幾つも顔?霊?思念体?のようなものが浮かんでいる。良く見ると建物の執拗な描き込みも異様で、ユーモラスでもあるし禍々しくもある。

クレパンの言葉としてこう書いてあった、
私は美術館に行ったこともないしフランスの外に出たこともない。 この歳までデッサンも絵画も習ったことはない。 私は何のために描くのだろうか…」

クレパンについて少し調べた
・フランス人のトタン屋職人
・アール・ブリュットの作家としてアンドレ・ブルトンやジャン・デュビュッフェによって紹介された。
紙をハートの形に切り抜いて病人の患部にのせることで治すという民間療法を行っていた(意味がわからない)
・63歳から絵を描き始めた。ある日ひとりでに手が動きだし絵を描き始めたのだという(意味がわからない)
・ある日突然「300枚絵を描いたら戦争が終わる」というお告げを受けて製作に取り組み始める(スピりすぎ)
・1945年、クレパンが300枚目の絵を描き上げた日、ドイツが降伏した(?!)
・さらに「もう45枚描けば世界全体が平和になる」とお告げを受けたが、43枚を描いて死んでしまった。

他にアール・ブリュットの作家としては、セラフィーヌ・ルイの作品も展示されていた。
彼女もパリ郊外で家政婦として働きながら、40歳を過ぎて守護天使のお告げにより絵を描き始める。今回の展示で初めて絵を観た。錯乱しているのに落ち着いている人…みたいな不思議な迫力がある。
彼女の人生を描いた『セラフィーヌの庭』という映画があるそうなので観てみようかな。

ジャン・デュビュッフェ《騒がしい風景》

アンフォルメルの先駆けであり、アール・ブリュットを提唱したジャン・デュビュッフェの作品も展示されていた。電話中の落書きを元に製作したウルループ。

職業的な作家よりも、アール・ブリュットの作家の方が好きだ。英語で言うところのアウトサイダー・アート。
例えばマリー・ローランサンは綺麗で可愛いけれど、クレパンのような意味不明な絵に惹かれる…と思っていたけれど、ローランサンの言葉を観て少し考えが変わった

「もし私が他の画家と距離を感じているとしたら、画家たちが男性で、それが私にとって解き明かすことができない問題だからです。しかし、たとえ男性たちの才能に脅威を感じても、私は女性的なものすべてに申し分のない心地よさを感じるのです」

たしかにこの時代に女性の作家としてここまで確固たる地位を築いた、それも女性的なものばかりを描いて、ということに気付いたし、自分が女性作家であることの葛藤も伝わってくる。

展覧会の最後にはゴードン・マッタ=クラークの建築に穴を穿つ記録映像やポンピドゥー・センターの模型が展示されていた。

9月までやっている展示なので、ポンピドゥー・センターに行ったことがない人もある人もぜひ

2016年6月23日木曜日

FAKE

森達也監督のドキュメンタリー映画『FAKE』を観た。
すごく面白かった。観終わった後、普段あまりパンフレットは買わないのだけど、思わず買ってしまった。
渋谷のユーロスペースで観た。下の階の昔オーディトリウムだったところのスクリーンも使って、上映回数を増やしていたにも関わらず、かなり混雑していた。

私はあまりテレビを観ない。
ちょうど2014年は引っ越したばかりで家にテレビがなかった。
そのためか、あまりこの一連の事件とそれに関するテレビでの報道についてよく知らないまま映画を観た。
ご多分に漏れず私も公開前に町山評の文字起こしを読んだ。それでこの映画のことを知り、興味を持った。
この映画の面白いところは、監督本人の声や時には姿までもがカメラに映るところだと思う。
演出もある。監督は佐村河内氏に言わせたいことを言うように仕向けるし、やらせたいことをやるようにけしかける。
町山氏が言っているようにたしかにこの映画はヤラセだ
やらせたいことをやらせ、撮りたい画を撮っている。
ドキュメンタリーを観て真実を知ることなどできないと私は思っている
というよりは真実などどこにもない。あるのは解釈だけだ。

「ドキュメンタリーが描くのは、異物(キャメラ)が関与することによって変質したメタ状況なのだ。目指せということではない。必然的にそうなる。作り手が問われるべきは、その事実に対して、どれだけ自覚的になり、主体的に仕掛けられるかだろう。」
森達也『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』より

私はこの映画を観て、森達也という人、これまで小人プロレスやオウムや放送禁止歌といった題材を追ってきた人、「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言っている人が、どのようにこの複雑な嘘の問題を解釈しているか知りたかった。
わざわざこの映画を観に行く人のほとんどがそうではないかと思う

嘘のポイントは2つあって
①耳が聞こえない→本当は聞こえる
②作曲した→新垣氏というゴーストライターがいた
このどちらについても佐村河内氏は嘘であったことを認めているが
①耳が聞こえない→全ろうではない難聴である(音がねじれて聞こえる)
②作曲した→指示書やデモを渡したので共作である(自分には作曲能力がある)
と主張している
「耳が聞こえなくて作曲はできない」「耳は聞こえるし作曲ができる」と主張しているのなら納得しやすいのだが、「耳は聞こえないが作曲ができる」と主張しているのでなんだかややこしい

でも私は特に真実を知りたいという気持ちはない。
それよりも面白い、と言っていいのかわからないが妙なディティールが色々あり、そちらの方が気になってしまった。
とにかく佐村河内氏は絵になる。だからこそ現代のベートーベンという名前が一人歩きしたのだと思う。
のびのびと暮らしている猫。奥さんの存在。豆乳を飲み干す音。たびたび登場するケーキ。やけに大きい(佐村河内氏には聞こえていないとされる)電車の音やらドアの音。僕は音楽が好きというアピールの口太鼓。外国語と日本語と手話で行われる直截なやりとり。バラエティ番組に出演するよう説得しにくるテレビ局の人たちの表情。世間での自分の報道を眺める佐村河内氏。授賞式。サイン会。面白かった。普通では観られないものを観た。

全てを喪ったと思ってもなお残るものがある。

最後の12分間は誰にも言わないでください、とか衝撃の最後の12分間とか宣伝で言われているが、
私は最後の数秒間に映るものがとにかく衝撃だった。
「クゥ〜〜〜!」と思った。
後味が悪い。
森達也はすごい。わざわざ観に行って良かったと思った。

パンフレットに寄せられているエッセイ、緑川南京さんのが面白い。
ドキュメンタリーって感じだ。

今、ユーロスペースで森達也監督がオウム真理教を追った『A2 完全版』が上映しているらしくて、気になっている。
レイトショーだけど。観に行こうかな。



2016年6月22日水曜日

恋とロボとブラーバ

私は夏のボーナスでブラーバに変身して好きな男の子たちが住んでいる家へと急いだ。
家に着いてから変身するべきだったとすぐに気づいたがあとの祭りで、ブラーバとなったこの身体では少しずつしか進めない。
私が掃除したいのはこんな道路じゃない。そう思いながらも丹念に道路をぞうきん掛けしながら進むしかなかった。
ブラーバになるとはそういうことだった。

私が掃除したいのは好きな男の子たちが住んでいる家の床だった。
この前遊びに行ったら床が汚かった。
しかも床は普通の床じゃなかった、でこぼこしていて掃除機がかけにくそうだった。
ブラーバだと思った。ルンバじゃない。

料理好きだけど掃除が大嫌いな男の子と何にもしないですぐ寝てしまう私の好きな男の子は仲が良く、毎日楽しく暮らしている様子で私は憤慨した。羨ましかったのだ。
でも二人とも掃除をしないので、私はすぐにブラーバだとわかった。
好きな人には綺麗な部屋で暮らして欲しい。
ブラーバとしてしか私はこの二人に関われないとわかったのだった

しかしブラーバに変身した途端に私は気づいてしまった。
私が好きな男の子は人間じゃなかった。ロボだった。
人間の時は気づかなかったが自分がお掃除ロボになった今となってはよくわかる。
むしろなぜこれまで気づかなかったのだろうか。

話しかけないと話さない。
充電が切れるとところかまわず寝てしまう。
寝ている姿はまるで死体のようだと思っていた。

まあロボでもなんでもよかった。
むしろ私もロボとなったことでロボ同士より親密になれるかもしれない。
もっと若いころは、好きな人の部屋の観葉植物になりたいと思っていた。
でも部屋に観賞植物を置くようなタイプには見えないし
やはり時代はロボ、役に立つお掃除ロボだ!

これほどまでにちぎれそうな気持ちで、東京中の道路をピカピカにしながら好きな人に会いに行くことなんて、これで最初で最後だろう。
玄関前で私を見つけた彼らは「おっブラーバだ」「やった飼おうぜ」とかなんとか言って私を部屋に入れてくれるだろう。
テレビも拾ったと言っていたから、ブラーバくらい拾うはずだ。
私は役に立つ。あなたの代わりに掃除をするよ。
もう部屋は記憶している。
私は毎日せっせとくまなく床を拭きながら、彼らの会話を聞くだろう。

彼らはここ数年でずいぶんと大人になった。
より正確に言えば、ロボの彼はロボのままだけど
話しかける彼の方が大人になったのかもしれなかった。
昔は金髪だったのに。今は七三分けにスーツで毎日働いているという。

ブラーバは何年生きられるのか、私は知らないが
私はもうこれ以上大人になっていく彼らを見たくはなかったし
ブラーバとなったことを私は何も後悔しないだろう。


注釈
ブラーバとは2013年にiRobot社から発売された拭き掃除に特化したお掃除ロボの名称である。
世界30カ国で発売され、2016年には余丁町の飲み屋で恋の話と同列に語られるほどの人気を得ていた。
その姿は四角く、ボタンを押すと動き出す

2016年6月16日木曜日

この世は二人組で出来上がらない


ギリシャのヨルゴス・ランティモス監督の映画『The Lobster』を観た。
独身者は収容所に連行されて、そこで期限までにカップルになれないと動物に姿を変えられてしまうという恋愛SFディストピア映画
新しい男ができた妻に捨てられてしまったコリン・ファレル演じる主人公が、収容所に送られるところから話は始まる

映画を観る前は姿を変えられてしまうってそんなファンタジーな、と思っていたけれど別に魔法とかじゃなくゴリゴリの人体改造や移植で動物にされてしまう
というかそんなのは建前で本当は殺されてしまうのかもしれない
映画のタイトルは、主人公が希望する動物だ
カップルになれないと無理矢理動物に変えられてしまうのに、何の動物になるか希望は聞いてもらえるというのがなんかもうおかしい
施設の外に広がる森には、施設から逃げた独身者たちが潜んでいて、狩りの時間に独身者たちを仕留めると期限が延びるという設定や、たとえ街を歩いていても見張られていて、カップルでないとすぐさま職質にあう、みたいな感じが恐かった。

施設では自慰行為は禁止されていて、しているのがバレると手をトースターで焼かれるとかとにかくめちゃくちゃなんだけど、メイドが定期的に部屋にやってきて黒パンスト越しにドライハンプしてきて勃起すると「昨日よりも早く勃ちましたね、いい傾向です」みたいなこと言って去って行くという設定はよくわかんないけどエロいなと思った
あとプールで背泳ぎしている鼻血がすぐ出る女の子の水着とおっぱい良かったです

前作の『籠の中の乙女』も公開時に渋谷のイメージフォーラムで観た、今作同様あらかじめ気が狂っている閉鎖された世界から、逃れようとするお話だった。どちらも我々の価値観からすると異常と感じられるその「管理」の理由は明示されない。
映画全体としては、思ったほど「異常」でも「狂気」でもなかった
ハネケやトリアーが好きな女の子と観に行った
期待しすぎたというか、ハネケやトリアーほどの「悪意」や「不快感」や「観るんじゃなかった感」はなかったのである。
でもすごくいいシーンがあって、そこはよかったねという話をしたような気がする。

そのシーンはクライマックスともいうべき場面で、異常な環境で育った姉妹二人が狂ったように奇妙なダンスを踊る、それがめちゃくちゃ良くてとにかくそのシーンがあったことで満足した。
今作でも、森の中で独身者たちがそれぞれの電子音楽を聴きながら踊るシーンがあって、メイドの女が静かにしかし激しくめちゃくちゃ変なダンスを踊るシーンがあって、すごく満足した。あの場面はいい。施設で男女がペアでムーディな音楽と共に踊るシーンの10倍良かった。

あと、今作で登場する血も涙もない女、というよりは人の痛みや死に対する精神が尋常ではないために独身者たちを殺しまくり期限が延びて動物にならずに済んでいる女、を前作でその変なダンスを踊りまくった長女役の人(アンゲリキ・パプリア)が演じていると気づいて、ぐっときました。
残酷な女(一般的な感覚の人間からすると)の愛情表現も印象的だった、自分と同じ人を見つけたと思った彼女の
「私たち、合う」

レア・セドゥが出てくるというのは映画を観る前から知っていたのですが、まさかあんな役とは思わなかった。
独身者のコミューンのリーダーの役なのですが
慈悲のない話し方、愛を憎む表情、残酷な振る舞い、時折浮かべる嗜虐的な笑み…
レア・セドゥの使い方が最高、これはちょっと好きになってしまう。
サディスティックな役似合う
メイドとはフランス語で喋るシーンもなんかよかった
あのシーンだけで、本当はレズビアンなんだけどリーダーなのでそれを抑圧して冷たく振る舞っているのかなとか思ったんだけど、後のシーンで完全に違いました…となった

この映画で描かれる世界がトンデモディストピアかというと、そうではないと思う
現実の世界を極端に描いているだけで
実際「結婚は?」「子供は?」という社会からのプレッシャーは少なからずあるだろうし
クリスマスに恋人がいないと肩身が狭いだとか
映画にもプロムのパートナーが見つからない、みたいな話が出てくる
お見合いパーティや街コンだってどんどん極端にしていけばこの映画に出てくる施設のようになると思う
独身者は迫害、までは行かなくても、若いうちはよくても歳をとるにつれ、パートナーがいないことが肩身の狭さに繋がっていくのかなあ…とか最近思う。
「好き」になってもらいカップルになるために必死で相手に合わせるとか
徹底して描かれる、共通点があること=愛であるというカリカチュアは面白かった
真実の愛などなく、性欲と自己肯定があるのみ、とも受け取れる

山崎ナオコーラの小説で『この世は二人組で出来上がらない』というタイトルがあり、そのタイトルを初めて目にした時に、その力強さにちょっと救われるような気持ちになったことを覚えている。
どうして二人組を作らなくてはいけないのか

この作品は映画の始まり方と終わり方がいい。
冒頭、女が突然あることをする場面も、ラストシーンの女が静かに座って誰かを待っている場面も、そこだけ観たら全く意味がわからないんだけど、映画を通して観ているとすごく味わい深い場面なのだ。
前作は奥歯を抜く、今作は眼を潰す。この監督は尋常でない痛みでもって管理下から逃れようとするが…みたいなテーマが好きなんだろうか。

元人間の動物たちが悲惨な死に方をするので動物好きの人にはおすすめできないんだけど、でも森の中を色んな動物たち、元々はカップルになれなかった人間だったのであろうラクダやらクジャクやらがゆったりと歩いている様子がとても良かった。

前作もおすすめ…では全然ないんだけど、ダンスシーンはとってもいいです。

2016年6月9日木曜日

『罪と罰』を読まないを読んだ

初めてタイトルを見たとき「いや読みなよ!」と思った
読まないを読んだってちょっと面白い。
でもこの本は本当に読まないで読んでいる。
読まないで読んでいること、結構あるんじゃないか?

私は長年読まないで読んでいてついに読んだ…!ということ結構ある。
特に世界的に名作とされている作品。あらすじどころかオチまで知っているがちゃんと読んだことはないという作品もある。

どういうことか説明すると、この本は、翻訳家の岸本佐知子、小説家の三浦しおん、クラフトエヴィング商會のお二人といった面々で、かの有名なドストエフスキー著『罪と罰』の読書会を行った様子が本に記録されているのだが、一風変わっているのが全員が「全員本に関する仕事をしているし、なんとなくあらすじは知っている。
「たしか、主人公がラスコーなんとか」
「おばあさんを殺しちゃうんじゃなかった?」
でも『罪と罰』をちゃんと読んだことがない!」という状態で未読座談会をスタートする。
それって大丈夫なのか。

本の仕事をしている人に『罪と罰』を読んだことある?と訊くと最も多い答えが「昔、読んだことがある」と答なのだという。

かくいう私も『罪と罰』読んだことある?と訊かれたら、
「もちろん!(…ただ昔一度読んだだけだからあんまり内容覚えてないかも…)」
という感じ。主人公の名前がラスコーなんとかで、ソーニャという娼婦が聖女で…うーん
つまり読んでない人と同じくらいの知識しかなくなってしまっている…

「読んだ」と「読んでない」に大差がないのなら、読まずに読書会を開くことができるのではないか?
すなわち『罪と罰』という小説を読まずに『罪と罰」について徹底的に話し合うことが出来るのではないか。
という思いつきをとことん実行したのがこの本である。

私もこれを機に少し『罪と罰』を読み返してみたのだけど、正直スベ公のことは完全に忘れていた
そんなことある?副主人公だよ(副主人公であることも知らなかった)
ラズミーヒンに関してもなんかそういやいたなくらいのことしか覚えていない
ロシア人の名前がややこしすぎるというのもある。
主人公の名前はロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ。長すぎる。
しかも時々ロージャとか愛称が出て来て混乱するし…

あと『罪と罰』について思い出そうとすると数年前に読んだドストの『罪と罰』をベースとしながらも日本の若者を主人公とした落合尚之の漫画『罪と罰 A Falsified Romance』のシーンが出てきてしまう。娼婦の代わりに援助交際をする女子高生、妹の代わりに姉が出てくる。結構面白い漫画なのでおすすめです、全10巻。

話が逸れてしまったけれど、未読なのに読書会をする様は面白い。
読まずに読む、つまり本を読まずに本の内容を推し量る。
冒頭の数ページだけ読んでどんな話なのか想像したり、適当に開いたページだけ読んで事の次第を推測したりする。
三浦しをんさんが突然出てきたラズミーヒンという名前だけを見て「誰?馬?」と発言していたのにめちゃめちゃウケた
完全にヒンの響きに引っ張られている
ラズミーヒンは最終的には「修造」と呼ばれていた

本書では最終的にはみんな真面目に読んで、読んだ上でまた読後の座談会を行うのですが、その内容もとても面白かった。
岸本佐知子さんがラスコのことを「突然帰るマン」とあだ名していたのもウケた

私もそうだけど、超名作を「読んだことない」「知らない」と明言するのはなんだか憚られる。
でもこの本は「『罪と罰』を読んだことがない」というマイナスポイントを「読んだことがない者だけが楽しめる遊び」に転じてしまおうとする悪あがきである、と書いてあって笑った
読む前も面白いし読んでも面白い。たのしいね。
実際この本を通して『罪と罰』の面白さを再認識した。

『『罪と罰』を読まない』を読まない
なんていわずにちょっと読んでみて

もちろん『罪と罰』も読んでみて