2016年5月26日木曜日

人殺しの絵と呼ばれて

挟まれてるのにカメラ目線
こないだの日曜日に、上野の西洋美術館でやっているカラヴァッジョ展を観てきた。

上野公園は若冲展の激混みがとにかく目立っていたが、カラヴァッジョ展はそこそこな混み具合だった。
若冲展がしょっちゅう行われていることを考えると、これだけまとまった数のカラヴァッジョの作品が観られる展示の方が混んで良さそうなものなのに。
しかも今回の展示では日本初公開の作品がある。

今回の展示の目玉は《法悦のマグダラのマリア》という作品で、長い間行方不明で2014年に発見されたという。
カラヴァッジョが殺人の罪を犯してローマを逃亡した1606年の夏に描かれたもので、その4年後にカラヴァッジョは死んだ。死んだときの持ち物の一つがこの絵で、サインが入っていないために本当にカラヴァッジョの真筆であるかわからなったが、研究の結果これは真筆である!と決まったのだそう。
その絵が今回の展示で世界初公開された。

人を殺した後に宗教画を描くのはどんな気持ちだろう。
でも超神聖な気持ちで描いたわけではないと思う、むしろ世俗的な気持ち。
「法悦の」って正確にはどういう意味かなと思って辞書を引いた。たぶん「超…最高です!」みたいな意味だと思うんだけど。
そしたら「仏教の教えを聞き、または味わって喜ぶこと。転じてなんらかの状態において生じる恍惚感をもいう。」だって。仏教?

カラヴァッジョ《法悦のマグダラのマリア》

深い闇の中で白くはだけた肩、半開きの口、薄く開かれた白目、弛緩しきった表情。カラヴァッジョの描いたマグダラのマリアは神に救われて恍惚…というよりは性的なエクスタシーに達しているように見えた
というか色を失って死にかけているようにすら見える。
諸説あるけど、聖書においてマグダラのマリアはキリストの死と復活を見届ける証人だとか、悔悛する罪深き女といった役回りで、娼婦だったとかイエスと結婚していたとか色々と言われる女性なんだけど
今観てもセンセーショナルでドキドキする絵だな、と思うので当時の人が観たらヒャー(チラッ)という感じだったのではと想像した
人を殺さないと描けない絵だ、とかも言われている。

カラヴァッジョ《メドゥーサ》
あと楯にメドゥーサの生首が描いてあるのも観た。ウオーッという感じ。
メドゥーサはどこ見てるのかな。でも目が合うと石になっちゃ
他にも斬首をテーマにした絵がたくさん展示してあった。ホロフェルネスの首を斬るユディトとか。ゴリアテの首を持つダビデとか。

挟まれちゃってアウチ!みたいな絵とか、自分に恋しちゃったナルキッソスの絵とかもよかったな〜
今までに何度もナルキッソスの話を見聞きしたけど、水面に映った自分に恋?そんな笑と思っていたけど、マジ恋しちゃった感が出ていてよかった。
半開きの口、抱こうとして差し入れる手。本当に気づいていない。自分が恋している相手が自分だということに。

カラヴァッジョ《メドゥーサ》
カラヴァッジョのフォロワーのことをカラヴァジェスキというらしい。
今回の展示だって、展示されている絵の全てがカラヴァッジョによる作品というわけではなく、大半はカラヴァジェスキにおる作品だった。それでもこんなに沢山のカラヴァッジョの作品が集まるのはすごいことらしい。イタリアの美術館でもこんなに一度に観られないとか。
カラヴァジェスキだけどカラヴァッジョのこと嫌いという人(ジョバンニ・バリオーネ)もいるらしいので複雑だ
バリオーネはカラヴァッジョのこと嫌いすぎて訴えたりもしていたのに、後世の人にはカラヴァジェスキとくくられてしまってちょっとかわいそう。

アルテミジア・ジェンティレスキ《悔悛のマグダラのマリア》
カラヴァッジョのマリアと共に展示されていた、このマグダラのマリアは完全にエッチでしょ。キリストに救われて云々とかじゃない、エッチ目的で描いたでしょ。と思ったんだけど、これはアルテミジア・ジェンティレスキという有名なカラヴァジェスキの女性画家が描いた絵だった。
当時、女性の画家というだけでとても珍しかったらしい。
この人の描いたホロフェルネスの首を斬るユディトを以前観たことがあって、すごい怖い…と思ったんだけど、後にジェンダー研究の本で男性社会への怒りを表現したと書いてあるのを読んで思わずなるほど…と思ってしまった。

展示の終わりにあったエッケ・ホモ、この人を見よ。というタイトルの絵を観た瞬間に「この人を見よ~この人こそ~」という讃美歌が頭の中で鳴り響いて止まらなくなった。人となりたる、活ける神なれ。
昔聖書を読んだり牧師の説教を聞いたりしたことは、キリスト教信仰をテーマとする美術作品を理解するのに役に立っていると思う
聖書におけるエピソードを知っているのと知らないのとでは大きく違うと思う。

常設展を観たら、建築模型が展示されていて感慨深かったです。
私も作ったことがある。
あと図面をトレースしたこともある。

版画の展示室では"描かれた夢解釈――醒めて見るゆめ/眠って見るうつつ”という展示をやっていた。
いつも通りアルブレヒト・デューラーとかオディロン・ルドンとか

秋にクラーナハ展をやるという。サブタイトルが奮っていて、クラーナハ、500年後の誘惑。
誘惑されたくない?500年の時を経て。

本のタイトル、リズムがよくて言いたくなる
もっと知りたいカラヴァッジョ
そして言うともっと知りたくなる

2016年5月25日水曜日

RCOがやってくる



ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団のドキュメンタリー映画を観た。
本当にいい映画で、色んな国の様々な人の人生とそれらを一つに結んできた音楽のことを考えて、少し泣いてしまった。

クラシック音楽を全く聴かない人でもこのオーケストラの名前をどこかで聞いたことがあるかもしれない。
ベルリンフィルやウィーンフィルに並ぶ、オランダの有名なオーケストラ

この映画はロイヤルコンセルトヘボウが2013年に行ったワールドツアーの様子をエディ・ホニグマンが撮ったドキュメンタリー
1年に50公演も行ったというからすごい。
ブルックナー7番に始まり、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチ、マーラーと様々な交響曲が登場する。
様々な国を旅する様は、ロードムービーのようでもあった

オーケストラのメンバーへのインタビューと、様々な国のクラシック音楽を愛する人たちへのインタビューとで構成されているのがとても良かった。
ブエノスアイレスのタクシー運転手、南アのスチールバンドで演奏する少女、黒人だからという理由でバイオリンを習えなかった音楽教師、サンクトペテルブルクに暮らす老人…
私とは生きている国も時代も生い立ちも全く異なる人たちで共感することすらできないのだけど、同じ曲を、同じオーケストラの演奏を聴いて強く心を動かされている、その一点で私と彼らが重なると思うと心強い気持ちになった。別々に生きているしわかりあえなくても、この瞬間は同じ旋律を聴いて感動している。今までもこれからも。

野外コンサート、アムステルダムの運河にのせての場面でも胸がいっぱいになってしまった
なんて素敵なんだ…もう…ぜひ観てほしいシーン

お茶目なコントラバス主席奏者がショスタコ10番について熱く熱く語るシーンがとても良かった。
それまで室内楽などでベースラインしか弾いたことがなかった14歳の時、初めて弾いた交響曲がショス10で、コンバスにこんなメロディが与えられるなんて!と衝撃を受けたという

主にマリス・ヤンソンスが振っていたのだが、途中でシャルル・デュトワが振るシーンもあった。
ヤンソンスが最近まで首席指揮者だったのが今年他の人に代わるらしい。

昔、私もアマチュアオーケストラの団員の一人だった
チェロを弾いていた
この映画に出てくるラフマニノフのパガニーニの主題による狂想詩も弾いたことがある。プロのソリストと共演できて嬉しかった。

オーケストラで弾いていると、オーケストラの中で音楽を聴くことができるのが楽しかった。
指揮者というかっこいい人種を観察するのも面白かった。普通ではない人が多いと思う。

クラシック音楽の好きなところは、昔から廃れる事無く何度も何度も演奏されてきた曲を今生きている人たちがまた演奏するところ、その営み。特に交響曲は沢山の楽器、沢山の人数を必要とするところ、その複雑さ。恊働するということ。他のジャンルの音楽からは得られない気分の高揚があること。

音楽と旅が好きな人、ぜひ観てほしい。

2016年5月24日火曜日

アウラの衰退、テンペルの彗星

土曜日に、横浜美術館でやっている”複製技術と美術家たち”という展示を観て来た。
富士ゼロックスの版画コレクションと横浜美術館のコレクションの中から、ヴァルター・ベンヤミンの言うところの「複製技術時代の芸術作品」について。
技術の発展とアウラの変容。

富士ゼロックスがこれほどまでに網羅的な、充実した版画・写真・ゼログラフィーによる作品のコレクションを持っているということを今回の展示で初めて知った。
横浜にある会社ビルの中にアートスペースも持っているという

第1章 写真の登場と大画家たちの版画 
展示はウジェーヌ・アジェのパリの写真に始まる アジェはあくまでも資料としてパリを写真に収め続け、二束三文で画家たちに売った
ベンヤミンはアジェの撮る都市写真をまるで犯行現場の写真のようであると評し、中平卓馬は事物が眼に突き刺さってくると評した
会場に、アジェの撮ったPont Marieの写真が展示されていた
私は去年初めてパリに行くまでは、アジェの写真を通してパリを知っていたが、実際に訪れてみて初めてベンヤミンの言わんとすることが少し理解できた気がした
Pont Marieは小さな可愛い橋
アンリ・マティスの詩画集『ジャズ』やパブロ・ピカソのエッチング作品も展示されていて、もうこの時点で「富士ゼロックスコレクションすげえ」という気持ちになっていた

第2章 普遍的スタイルを求めて
ダダについて。バウハウスについて。 美術の教科書のようだと感心した。ベストアルバムみたいというか
クレーやモホイ=ナギやカンディンスキーに混ざって展示されているアウグスト・ザンダーの人物写真が良かった。
あとロトチェンコの写真が好きなので色々展示してあって嬉しかった。

第3章 変容のイメージ
シュルレアリズムについて。これも教科書みたいにおさえるべきところをおさえてあった ベンヤミンが言うところの「複製可能性に狙いを定めた」作品



マックス・エルンストの『Maximiliana, ou l'exercice illégal de l'astronomie(マクシミリアーナ、または天文学者の不法行為)』が展示されていてそれがとても良かった。
 学位がないために冷遇された天文学者で詩人で、天体観測を"見る芸術"と呼んだテンペル・エルンストを讃えた版画集。
これが観れただけでもこの展示に来てよかったと思った

                                   

秘密文字が好き
美しい
          



文字、美しい
テンペルが肉眼で発見したという星雲や惑星のことを考えた 
その孤独についても 

そういえば横浜美術館で数年前にマックス・エルンストの個展があったな。
 他にもコラージュ作品も数点展示されていた。
 彼のコラージュは秩序のある狂気が小さいサイズの画面に満ちていて好き。
カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢とか。 
 
あとなんかオシャレなエロ本みたいなのが展示してあるなと思ったらポール・エリュアールの詩とマン・レイの写真による詩画集だった 

第4章 大量消費時代にむけて 
ここはあまり興味がなかった。 ウォーホル、リキテンスタイン、オルテンバーグらのポップアートと全然スタンスの異なる荒川修作の作品が並べて展示してあるのはちょっと面白かった 

第5章 ゼログラフィーと美術家 
ゼログラフィーとは電子写真・複製技術のこと。1960年頃始まった 
新たな手法を手に入れた美術家たちの試みが面白いし楽しそう、野村仁とか河口龍夫とか
 高松次郎の「この七つの文字」「THESE THREE WORDS」も展示されていた 
初めてゼログラフィーを作品に用いたのはブルーノ・ムナーリだと知ってへぇと思った 
ご多分に漏れず私はムナーリが大好き 
Xerographieは非常に先駆的な作品だったんだな

 



全体を通してベンヤミンの言葉を引きつつ、説明が丁寧でコレクションが網羅的という印象
アウラ、ダダ、バウハウス、シュルレアリズム、などなんとなく言葉は知っているがよくわかっていない、美術史の流れを体系的に把握しているわけではないという人が行くと理解が深まって良いと思う。
ベンヤミンが言及した美術や写真の実作品を、考察や発言の引用と共に展示している

女性作家に焦点を当てたコレクション展の方も良かった。
熊井恭子のステンレスチール線による立体造形が印象的
写真の展示室ではスタイケンやカニンガムの写真の他にマヤ・デレンの実験映画『午後の編目』が上映されていた

2016年5月6日金曜日

発狂する 一番適した狂い方で


村田沙耶香の小説『消滅世界』を読んだ。

近い未来、人工授精の技術が進歩して、セックスをしなくなった世界の話。
恋人とセックスをする人はもはや珍しく、そもそもヒトと恋をする人も減ってきて、多くはアニメや漫画など二次元のキャラクターと恋をしている。恋愛そのものを否定し、恋愛をしない人も増えている。

それでも結婚して子供を産み、家族を作るという概念はまだ残っている。
しかし夫にも妻にもそれぞれ恋人がいて、夫婦間でセックスをすることは"近親相姦"とされタブー視されている。
物語で「夫に襲われる」話が出てくるが
「まさか『家族』に勃起されるときがくるとは」
「普通、そういうことは外ですることでしょう。よりによって奥さんと性行為をするなんて」
「大丈夫よ、妻と近親相姦しようとするような変質者は滅多にいるもんじゃないわ」
この物語の設定の中での話とわかって読んでいてもぐらぐらしてくる。

主人公の女性は自分が父と母の"近親相姦"の結果産まれたことについて幼い頃から悩んでいて、世界の"正常"の変化についていくことができなかった古い価値観を持つ母(この物語で唯一我々読者と同じ価値観を持つ登場人物だがこの世界の中では狂人とみなされる)から聞かされた男女が愛しあってセックスをし子供を産むという"正常な"愛の話を呪いと感じている。

もうこの導入部だけで既存の価値観を壊されるし、人によっては嫌悪感をおぼえる設定かもしれない
でも単なるグロテスクな思考実験ではないと思う

避妊具を使用して生殖と快楽を切り離すことは誰でもやっていることだし
数はまだ少ないが人工授精によって生まれる子供だっている
二次元のキャラクターを「嫁」と読んで憚らない文化だってもはや認められているし
AVなどのエロコンテンツに容易にアクセスができたり、あまりにもクオリティの高いラブドールなどもう生身の人間と付き合う必要性を感じないという考えだって生まれてきている。
ちょっと話がずれるけど、壁一面のアニメキャラのポスターとフィギュアに囲まれて暮らす人とかすごく可愛いAV女優とか好むと好まざるに関わらずスマートフォンの画面に表示される動くエロ漫画の広告だとかって、ちょっと昔の人から見たらありえない光景だと思う。

Aセクシャルの人、そうでなくてもセックスに嫌悪感を感じる人にとっては理想の世界かもしれない。
恋愛とセックス、生殖とセックス、性欲解消とセックスが完全に切り離されていて、性行為をしなくても好きな人と共にいることができる、というかそれが当たり前の世界だからだ。
主人公は"今の時代には珍しい恋人と性行為をすることを好む人"として描かれるが、それまでしたことがなかった恋人に、セックスがどうしても嫌だと言われフラれてしまい、もしかしてキスですら相手は嫌だったかもしれないと落ち込み、夫に慰められる。もちろん夫とセックスをしたことはないしそれどころか肌をあまり見せたことがない、が、人工授精をして子供を作る予定だ。

セックスのない世界の物語でありながら、何度かそのシーンがある。
しかし通常の性描写では用いられない言葉で、登場人物たちも手探りで、目的も達する場所もないまま行為に臨む。読んでいるとそもそも何なんだったけセックスってという気持ちになった。なんでするんだっけ。

物語を読み進むにつれ、最初は異常と感じられたこの世界の感覚に慣れていく自分に気が付く。
「正常も変化してるの。昔の正常を引きずることは、発狂なのよ」と主人公は母親に言うが
主人公も変化する環境にどんどん適応していく。その様子を狂っているとも思うし、いや、いざ全ての人がそうして暮らす中で日常を送り始めたら、元々自分はこういう習性の動物だったと思うかもしれない

それでも同性愛はまだ広く認められてはいなくて、同性のアニメキャラに密かに恋をして苦悩し、将来は男性も妊娠できる技術を研究したいと考える少年のエピソードや、主人公とその親友がべつに恋もしていない見知らぬ他人の男と結婚するくらいなら気の合う長年の女友達同士で結婚できたらいいのにと考える場面が印象的だった。
 
この『消滅世界』を読む前に同じ作者による『殺人出産』を以前読んだ。
これもかなり強烈で示唆に富んだ短編集だった。
『消滅』を読む前に『殺人』を読んでおくと異常な世界観にスッと入って行けるかもしれない。

表題作の「殺人出産」は10人子供を産めば合法的に人を1人殺せる世界の話。
男性が妊娠することが困難ではあるが可能な点や、子供が画一的に"生産"される様子など、『消滅世界』に通じるものがある。
これも『消滅世界』同様、現代の私たちの価値観・倫理観からすると狂っている物語だが、
「たとえ100年後、この光景が狂気と見なされるとしても、私はこの一瞬の正常な世界の一部になりたい」という一文が印象的

また、「トリプル」という短編(これも『殺人出産』や『変愛小説集』の日本作家版などに収められている)も良かった。2人ではなく3人で恋をして、性行為にあたる儀式をするのが若者の間で定着していく様子を描いている。主人公の母親の世代は「3人で行為に及ぶなんて汚らわしい」と拒否を示すが、主人公は2人のセックスを目撃してしまいショックを受けて嘔吐する。

この『消滅世界』の元になったと考えられる「清潔な結婚」という短編も『殺人出産』に収められている。
夫婦間では性行為を行わず、家族の外に恋人を作る。
「家の外は、僕の恋と性欲で汚れている。家の中でだけは清潔な僕でいられるんだ」

『消滅世界』私も途中まではちょっと極端だけど、セックスと生殖が完全に切り離されたり、恋愛や結婚を必ずしもしなくてもよくなったり、誰とも結婚しなくても子供を産むことができたりする社会は多様性があっていいかもしれないとすら思っていた。

しかし物語が進み、千葉が実験都市"楽園"に指定されるあたりから恐ろしくなってくる。
そこで行われる実験とは、大人は性別を問わず妊娠可能することができ、生まれた子供はセンターに預けられ、地域で育てる。
地域で育てるというと聞こえが良いが、大人は全員「おかあさん」と呼ばれ、子供は全員「子供ちゃん」と呼ばれ、誰もが「子供ちゃん」の「おかあさん」になって個を消失していく様は不気味としか言いようがない。しかしその「子供ちゃん」を愛玩する「おかあさん」たちを不気味と思っていたはずの主人公も、徐々にその種の存続のみを目的とした世界に慣れていくのだ。

「本当は、僕らはもうすでに失っているんだよ」という登場人物の台詞を読んで
そうなのかもしれない。もう失っているけど気づいていない…
と思って恐ろしく感じたが、何を失っているのかわからない

主人公は最終的には本当に狂ってしまう。
というのは私たちの価値観に照らすと、というだけで主人公はこうも言っている
「洗脳されていない脳なんて、この世の中に存在するの?どうせなら、その世界に一番適した狂い方で、発狂するのがいちばん楽なのに」
そうなのかもしれない

最初は「ぜったいそうじゃない」と思いながら読み始めたのに次第に「そうなのかもしれない」と思っている自分に気がついてそれがこわかった。


作者は他にも突飛な、しかしどこかリアリティのある異常な世界の小説を書いている。
新潮で発表された「生命式」では人肉食が普通に行われる世界を描いていた。
「中尾さん、美味しいかなあ」
「ちょっと固そうじゃない? 細いし、筋肉質だし」
「あ、ひょっとして、池谷先輩って人肉あんまり食べない人なんでしたっけ」
という冒頭の会話からしてやられた
生命式とは死んだ人間を食べながら男女が受精相手を探し、相手を見つけたら二人で式から退場してどこかで受精を行う、というものでなんか山奥の村の昔の風習にありそうな気もしてくるからこわい。
セックスという言葉を使う人があまりいなくなり、「受精」という妊娠を目的とした交尾が主流となるという設定も、『消滅世界』に通じるものがある。
ここで少し読める

この前、村田さんが出演する句会イベントに行った時も、初めて俳句を詠んだという彼女の句は面白くて、
ネックレススープに入れて夏近し
という句、ネックレス入りのスープを作成して夏を感じてんじゃねーよと思っていたら
”別れた恋人からもらったネックレスをもういらないとスープに入れて夏が来る”という句だった。

嫌いな人の睫毛を食べて春嵐
という句も、まず「嫌いな人の睫毛」という言葉から目が離せなくなってしまって、今まで好きな人の睫毛については散々想いをはせてきたけれど嫌いな人の睫毛、嫌いな人なのに睫毛という細部まで見ている、とても注目している、と思ったら食べた!という驚きがまずあって、次に嫌いな人に対して気が狂うほど怒ってしまってとにかく相手にダメージを与えたい、殴るとか噛み付くとかでは足りないもっとこう何かブランニューな危害を与えたいという衝動で睫毛を口で毟り取ってしまう情景を思い浮かべた。睫毛が無い顔にしてやりたい程の怒りみたいな。
次にやはり口が目の近くにあるという普通ではない距離感から性行為を連想して、セックス中に突然今まさに瞼に口付けをした相手のことが嫌いだ大嫌いだ睫毛を毟り取ってやりたいと気づいてしまってそれまで感情の赴くままに身体を動かしていたその連続で睫毛を毟り取って食べてしまう情景を思い浮かべた。
と、色々なことを考えたのですが村田さんの自句自解はこう
生理的嫌悪感をもっと感じてみたくて酔い潰れている嫌いな人の睫毛を食べてみる」
やばい

歯が燃える夢を何度も春の虹
という句も良かったな。
村田さんはおそらく口を使って食べることに関心がある。きっと抜けた歯を燃やすんじゃなくて今生えている歯が燃えているんだと思う。
そんな尋常じゃない状態の夢を何度も見るのが春
春なんですよ
春、歯は燃えているか

胸に入る空気春です春です
という他人の句を読んで、「もしかして手術をしているのかな」と解釈したり、今もコンビニでバイトしているという話も面白かった。

話がだいぶ俳句の方へ逸れましたが
既存の価値観を疑う、揺さぶる、当たり前を改めて考えるといったテーマは好きだし
読むと色々なことに思いを巡らしてしまう。
今後の作品もたのしみです。