2016年9月17日土曜日

Aujourd'hui le monde est mort


早く世界が滅亡しますように。

そんなことを呟く人だって、本当に世界が滅亡してほしいわけじゃないと思う。

いや滅亡してほしいという願いの気持ちはリアルなんだけど、滅亡の部分にリアリティはないというか。
自分が消えてなくなってしまいたいという気持ちに世界を巻き込んでいるだけ、
ありがちな絶望を端的な言葉で表しているだけ。

それにしても世界の終わりという重々しい言葉が、それを名前にしたバンドが流行って人口に膾炙しているのってちょっと面白い。ポップに省略されてそれ本来の意味から離れてただのバンド名として気軽に口にされている。せかおわ。

今日、世界は終わっちゃいました。もしかしたら昨日かもしれないんですけど。
そんな感じがする。

世界の終わりがそこで見てるよと紅茶飲み干して君は静かに待つ?

世界の終わりを願ってもしょうがない、そんなことは現実逃避に過ぎないということはわかっている。
この世を壊したって~一番ダメな自分は残るぜ~とオーケンも歌っている。

そんな願いに呼応あるいは警告するかのような、ありとあらゆる世界の終わりを提示する展示、“杉本博司:ロストヒューマン”を観てきた。



“今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない”

この印象的なフレーズとそれに続く様々な職業の最後の人類による遺書のテクスト、杉本自身の作品に加え、杉本の蒐集したコレクション(化石、古美術、歴史的な資料など)などによって構成される文明の廃墟のインスタレーション。

パリのパレ・ド・トーキョーで行われた“Aujourd'hui le monde est mort [Lost Human Genetic Archive]”という展示の東京バージョンだという。
直訳するなら、“今日、世界は死んだ[失われた人類の遺伝子保管場所]”みたいな感じかな。
この展示を東京で観ることができて嬉しい。

写真美術館のような、基本的に写真の展示を目的とした展示空間(しかもリニューアルオープン仕立てで新しく綺麗な)にはあまり似合わない展示内容なのではないかと思っていたが、その予想を覆して継ぎ接ぎしたトタン壁で構成された空間は、鑑賞者を彷徨わせ、様々な文明の終焉に想いを馳せる廃墟の空間と化していた。

展示は杉本の代表作の《海景》から始まる。
「太陽系の第3惑星地球には大量の水が存在し、5億5千万年ほど前から水中での有機物による爆発的な生命現象の連鎖が始まった。生命は人類にまで進化し、今回の2万年程の間氷期の間に文明の発生を見た。しかし様々な困難により文明は衰退し、そしてそこに残されたのは文明の廃墟だった。」
ただ海がずっとあるということを写真に撮るとこんな感じで、文章にするとそんな感じか

この展示の面白いところは、杉本の考える様々なこの世の終わりのシナリオが、様々な職業の人物の肉筆によって代筆され、掲示されているところだ。
作品リストに加え、代筆者のリストもあった。

リストの頭には杉本による『肉筆考』が記されている。
“肉筆は字面の姿の上に、その文意以外の読み取る徴を宿している。”
だからこそ
“文明の終わりは肉筆で書かれねばならない。文明が終わる時こそ、その始原の姿が現れるのだ。”

ちょっとわかる。
よく知っていると思っている人の肉筆を知らなかったりする。
時々Twitterが全部肉筆だったら、という想像をたまにする。

肉筆で様々な職業の人物が世界の終わりを物語る。
例えば、人類最後のコンテンポラリー・アーティストはこう語る。
「今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。
後期資本主義時代に世界が入ると、アートは金融投機商品として、株や国債よりも高利回りとなり人気が沸騰した。若者達はみなアーティストになりたがり、作品の売れない大量のアーティスト難民が出現した。
ある日突然、アンディー・ウォーホルの相場が暴落した。
キャンベルスープ缶の絵は本物のスープ缶より安くなってしまった、そして世界金融恐慌が始まった。
瞬く間に世界金融市場は崩壊し、世界は滅んでしまった。
アートが世界滅亡の引き金を引いた事に誇りを持って私は死ぬ。
世界はアートによって始まったのだから、アートが終わらせるのが筋だろう。」
このテクストと共にキャンベルスープ缶が1カートン展示されていた。
これをロバート・キャンベルさんが書いているというのも可笑しい。
難しい漢字も上手で感心した。

アーティストだけでなく人類最後の美術史家もいた。
「現代になって、人は表現する対象を失ってしまった。自然への畏怖や神の姿、いや、美そのものが陳腐化してしまったのだ。すべての芸術はパロディー化してしまった。
私は美術史に携わる学者として、芸術の終焉に立ち会えたことに喜びを感じる。アートのない人類なんて、信者のいない神のようなものだ。」
この言葉が今回の展示を観ている間、自分の中で響いていた。すべての芸術はパロディー…アートのない人類なんて、信者のいない神…

人だけでなく人形の物語もあった。
一列に並んでこちらを見ている文楽人形の生首がカクカク動いたり、バービー人形とか後を引く気味の悪さがあった。
大量に敷き詰められた卒塔婆とレンチドールの妙な目つきが忘れられない。

アンジェという名のラブドールもいた。
「今日、世界は死んじゃいました。もしかしたら昨日かもしれないんですけど。
私は男に愛されるためだけに生まれてきました。私の名前はラブドール・アンジェ。
女の社会進出は果てしなく広がり、大統領や財閥経営者などの要職はほとんど女という、女尊男卑社会が生れました。男は女に性的な魅力を感じなくなり、対女性萎縮症候群と呼ばれる症状を示しました。
男は性的対象を理想化したラブドールに求め、私のようなかわいい、生身肌のラブドールが生まれたのです。
滝の写真とガス灯を持って来た老人が、私を最後に愛してくれた人でした。
でも、ごめんなさい、私達は不妊症。そして、この世に、人は生まれなくなったのです。」

何となく『この世界には有機人形がいる』という漫画の世界観を思い出した。

すごく独特なフォントのような束芋の肉筆が印象的。前に個展で肉筆の文章を見た時はここまで独特な字ではなかったような気がするので人間ではない者が書いた文章としての役作り(?)かな。すごく素敵な字でした。
テキストの上にはマン・レイによるマルセル・デュシャンのポートレイトが飾られていた。
パリの覗き部屋のような窓から小さな部屋を覗くと、横たえられた美しいラブドール(オリエント工業のアンジェという製品)、後ろの壁には杉本博司の《ジオラマ》。
デュシャンの遺作、《落下する水、照明用ガス、が与えられたとせよ》のオマージュかもしれない。

ちなみにデュシャンは生前から自分の墓碑銘を考えていて、その言葉は実際に彼の墓に刻まれているという。
「そして死ぬのはいつも他人」

5月に銀座のヴァニラ画廊でやっていた人造乙女博覧会という展示を観に行った。
その時初めてラブドールの肌に触れた。おっぱいより二の腕より太ももより、足の指の触り心地がヤバくてなんというか…えも言われぬ心地良さがあった。
最近のラブドールはオプションで肌の下に透ける血管のメイクまでしてくれるらしい。視線も動くという。

さて、文明の終わりを見届ける建築家、これは絶対にいると思いながら展示を観ていたのですがやはりありました。
代筆者が磯崎新だったんだけど、自分が考える文明としての建築の終わりのヴィジョンについての文章を、それを作ってきたと言っても過言ではない磯崎新に代筆させるのってめちゃめちゃ緊張するな…と思った。
他の代筆者は必ずしも本人の職業と一致する文章を書いていたわけじゃないので気になった。

すごく印象的だったのが、“耽美主義者”のコーナーにあたジャック=ファビアン・ゴーティエ・ダゴティの解剖実験の絵。
女性の背中が花開くように切り開かれ、血と肉と骨が覗いている。その姿はむしろ艶めかしささえ感じさせ、大変グロテスクな表現なのに思わず見惚れてしまう。
以前、森美術館で行われた医学と芸術展で、ダゴティの授乳している裸婦の子宮断面図や妊婦の解剖図などを観て「エロ漫画の断面図表現って昔から需要があったんだな~」と思った。
医学の名の元に秘かに追及されてきた人間の暗い欲望、白い女性の肌を切り開いてその中身を見たいという強い欲求を可視化したような解剖図に、文明の破滅も忘れて魅せられてしまった。リアルなふたなり絵もあったよ。


上に挙げた以外にも
・人は根源的に人を殺したい、人間は理想という名のもとにおいてはどんな惨たらしいことでもする、理想主義と理想主義の殺し合いで滅ぶ世界(硫黄島より見つかったジャップ・ハンティング・ライセンスの展示と共に)

急に隕石が地球に激突して原発が破壊され放射能にまみれ滅亡する世界(様々な実際にこれまで地球に落ちてきた隕石の展示と共に)

突如として若い男性の性欲がなくなり勃起不全になり女性はパニックに陥り高齢者の生殖能力回復薬に望みが託されるも結局は滅亡する世界(牛乳箱に入った大量のバイアグラの展示と共に)

太陽系が宇宙空間に存在する電磁嵐帯に突入し世界中のコンピューターと電子機器が使用不能になりすべての交通と通信の手段が途絶えすべての生産と流通が止まり人類が餓死する世界(マッキントッシュSEの展示と共に)

遺伝子操作と胎児診断の技術が発達しIQ200以下の子供は出生させていはいけないことにした結果、人類が聡明になりすぎて虚無感に苛まれ経済活動も委縮、滅亡していく世界

・安楽死が推奨され、得も言われぬ幸福感に満たされて死ぬことのできるLSDの供与や、安楽死協会製作のプロモーションビデオ「死ぬ程気持ちよいことはない」の効果により、死の悦楽は人の心を捉え、そして誰もいないくなる世界(30分に1回、Aujourd'hui le monde est mortと喋るオウムの剥製の展示と共に)

などなど様々な文明の廃墟が展示されていた。
それぞれのシナリオは、どこかで聞いたことがあるような、既に小説や映画や時には現実においても語られてきたような話が多いけれど、その世界観に没入した状態で展示品を鑑賞するという面白い体験となっていたと思う。どのテクストの結びの文章が印象的だった。諦念、恐怖、後悔、絶望、喜び、疑問…

33の世界の終わりのシナリオに打ちのめされ、ありとあらゆる方法で世界が終わったと感じた後、下の階の展示室へ行くと、そこには何も映っていない廃墟と化した映画館の写真が暗闇の中でぼうっと浮かびあがっていた。
世界初公開の《廃墟劇場》という作品。
《劇場》というシリーズは1970年代から制作していて、私も概要は知っていた。
廃墟と化したアメリカ各地の映画館で、8×10の大判カメラを用いて上映1本分の光量で長時間露光し、驚くほど精緻な仕上がりのプリントをする。
何も映っていないかのように見える白いスクリーンは、時間と光の記録であり、物語のシーンの集積なのだ。
なんかそれってすごく人生っぽいなと思う。
私は映画館で映画を観るのが好きだ。映画館で観ないのであればそれは映画を観たとは言えないと思う。ストーリーの把握ってやつだ。あと人間は根源的に暗がりで明るい光を見つめるということが好きだと思う。だから映画館はなくならないで欲しい。できればみんなで映画を観たい。
だからこの《廃墟劇場》の写真を観ると、これまで観てきた映画のことを考えて時間の多層さみたいなものについても考えて処理がしきれずにぼうっとなってしまう、それでなんかすごく「人生…」という気持ちになるのだ。気がつくと映画館は廃墟になっている。

写真の撮影時に上映した映画についての作家の解説文が床に照らすように掲示してあって、まるで映画のスクリーンが発する影のようだった。

今回の展示で繰り返し用いられている「今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない」というフレーズは、『異邦人』の冒頭「今日、ママンが死んだ、もしかすると昨日かもしれない」から取ったらしい。
世界が終わるときって、今日突然終わるとかじゃなくて、ある日突然「いつからかわからないがもう世界が終わっている事に気づく」んだろうな、と妙に納得をした。彼氏と別れる時とかもそうだし、きっと終わりってそういうもんなんだろう。

ふと、展示室を対角に仕切った壁の向こうに何か違う世界があると気づいて足を踏み入れたら、無数の仏像の写真が飾られていてびっくりした。あの世に来ちゃったかと思った。
新作の《仏の海》というインスタレーションだった。
勿論この光景は知っている。京都の三十三間堂の千手観音だ。実際に観たこともある。
仏像を見るということは信仰のほとんど失せてしまった現代人にとってはどのような体験なのだろうか。
ということがテーマの一つであるらしい。
私も無宗教だけど、世界が終わったら案外すがっちゃうかもしれない、仏。と思わせる迫力がありました。

世界の終焉について考えながら展示室を出て来たら、下の階では世界報道写真展をやっていると知って「現実じゃん…」となった。報道写真展、毎年観ているが、なんだかロストヒューマン展の後に観る気にはなれなかった。10/23までやっているのでまたで良かろう。

展示室内は廃虚と終焉の様相を呈していたが、リニューアルオープンした東京都写真美術館は、白くて明るかった。
改修のため閉館する前は、東京の美術館の中でもよく行くところトップ5に入っていた場所なので感慨深かった。
今後の展示も面白そう、年末にアピチャッポン・ウィーラセタクンとか。
1階に新しく代官山のMAISON ICHIができていたので、今度利用してみたい。
ただいくら推してもTOPという愛称、浸透しなさそう。

杉本博司といえば、建築家の榊田倫之と共に熱海のMOA美術館のロビーと展示室の改修を手がけていると最近知って気になっている。
こちらもリニューアルオープンが待たれる。

2017年に小田原市にできる江之浦測候所も気になっています。
現代建築でありながら古代遺跡のようでもある。


IMAの2016秋号に今回の杉本博司展の特集があり、インタビューやキーワードの解説、杉本の来歴や思考のベースとなっているであろう図書の紹介などがあり、今回の展示の理解を助ける。

「写真」にはいかなるプロタンシオン(未来志向)もない。「写真」の悲壮さやメランコリーはここから来る。
「写真」は停止しているので、そのプレザンタシオン(現示作用)は時間の流れをレタンシオン(過去指向)に変えてしまう、というようなことをロラン・バルトが『明るい部屋』に書いていて、なんだか小難しいけれどようするに思い出はいつも綺麗だけどそれだけじゃお腹がすくわ、ってことでしょ?と適当な解釈をしていたが、それが映画を写真にする杉本の作品と結びつけて書いてあって面白い。

あー世界の終わりかあ。私は終わりに立ち会うのかな。
気がついたらもう終わっているのかも。

明日世界が終わる日に 一緒に過ごす人がいない (穂村弘『求愛瞳孔反射』)

2016年9月12日月曜日

極北の郊外風景

私はあまり昔のことを覚えていられないから、すぐ今が一番うれしい・楽しいと感じてしまう。
その逆もまた然りで、すぐ今が一番つらい・苦しいと感じるので、もっと積み重ねてきた経験というものを活かして正しく現状を認知してくれよと自分に言いたくなる。

毎年夏は終わる。私は夏が終わると一つ歳を取る。秋は大人の始まりだ。

誕生日に、誕生日プレゼントを貰った。
今まで貰った誕生日プレゼントで一番うれしい!と思った。もちろん今までだってうれしかった!けど、今が一番うれしい!という気持ち

何を貰ってそんなに嬉しかったかというと、
『Hyper Ballad―Icelandic Suburban Landscapes』
ホンマタカシが90年代のアイスランドの郊外の団地を写した写真集。

ブックデザインはマイク・ミルズ
このタイトルはビョークの曲名から取ったのだろう。
『東京郊外』と同時進行で制作されたものだという。
ずっと欲しかった。

帯欠だけど状態は良いし、付録の撮影ポイントの記されたマップも付いていた。
これを手に入れようと思ったら、大概は元値の数倍の値段で古本を買うしかない。
私が喉から手がでるほど欲しがっていることを知っていて、東京の古本屋を探し回ってプレゼントしてくれたのだと思うと、本当にうれしい。

2年前の冬、初めてアイスランドへ行った。以降、彼の地の虜である。

アイスランドの景色が好き。見渡す限りの火山岩。巨大な滝。あまり木がない。苔がある。
海そして雪山。激しいオーロラの動き。
そういった大自然も好きだし、レイキャヴィークの街並みも好きだ、色が可愛い。
自然とハイセンスなデザインが同居している。
きらびやかなガラスの現代建築の背景に海と雪山が同時に見える。
そこがレイキャヴィーク周辺の他にはない魅力だと思う。

レイキャヴィーク滞在中、郊外のショッピングモールまで歩いて行った。
行く途中、沢山の団地を通り過ぎた。次々と現れる日本の団地にはない配色・デザインに夢中になって写真を撮った。
アルバムを見返すと団地の写真だけで似た様な構図の写真を何枚も撮っている。シャッターの回数は興奮のバロメーターなので…


写真家のホンマタカシがアイスランド郊外の団地を撮った写真集を出していることを知ったのは帰国してから。それからずっと欲しくて探していた。ホンマタカシの建築写真は結構好き。

澄み切った青い空に素敵な色に塗られた団地群。
そこで暮らす人たちのことを考える。
これからはこの写真集をいつでも好きな時に眺めることができる。うれしい~

さて、私が他にも持っているアイスランドの写真集の話がしたい。

1.『Iceland / small world 』Sigurgeir Sigurjonsson

これはアイスランドを旅行した時に、地熱発電所のお土産物屋で買った。
アイスランド国内では有名な写真家のようだけど、国外にはあまり流通していないのかな。
10.5センチ角、手のひらサイズの写真集だけれど、300ページ以上のフルカラーでかなり厚い。
何も無いところにポツンと建っているカラフルな家…
アイスランディックホースのニヒルな笑みも良い。

2.『wonder Iceland』keiko kurita
これは大阪のカロというかわいいブックカフェで見つけて買った。
正方形にトリミングされたインスタグラムみたいなかわいい写真。
アイスランドの日常という感じ。

3.『BIRD』
写真集ではなく旅雑誌だが、この雑誌に載っている写真を見て私はアイスランドに魅せられ、旅に出ることを決めた。
特に印象的だったのは表紙の稲岡有里子という写真家の幻想的な写真。
特集を読んで、ここに行かなきゃと思った。

4.MR-DESIGN / BATH ART
そしてこれは私が風呂に貼っているポスターです。
レイキャヴィークの街並みを市橋織江が撮ったもの。
ハットルグリムスキャルキャ教会から撮ったのだと思う、というかそれ以外に高い建物はないのだ。私も教会へ行き、上へ登って同じ風景を眺めた。
帰国後、あの景色が恋しくなってこのアートピースを買い求めたのだった。

アイスランドは遠い。
初めて行ったとき、ずい分遠くまで来てしまったな…と思った。今までに行った一番遠いところかもしれない。
日本から直通便はないし、行くだけで1日使ってしまうから、なかなか気軽に行けない。
でもまた絶対に行きたい。
心の一部を置いてきたという感じがする…なんて大袈裟な。でも何の縁もゆかりもない地なのに、一度訪れて数日滞在しただけなのに、私の中でつらい時に思い出す心のふるさとのような場所となっている。

それだけの魅力がある国だと思う。

写真集を贈ってくれた人の欲しい本を知った、今度は私がその本を探す旅に出よう。