2016年6月23日木曜日

FAKE

森達也監督のドキュメンタリー映画『FAKE』を観た。
すごく面白かった。観終わった後、普段あまりパンフレットは買わないのだけど、思わず買ってしまった。
渋谷のユーロスペースで観た。下の階の昔オーディトリウムだったところのスクリーンも使って、上映回数を増やしていたにも関わらず、かなり混雑していた。

私はあまりテレビを観ない。
ちょうど2014年は引っ越したばかりで家にテレビがなかった。
そのためか、あまりこの一連の事件とそれに関するテレビでの報道についてよく知らないまま映画を観た。
ご多分に漏れず私も公開前に町山評の文字起こしを読んだ。それでこの映画のことを知り、興味を持った。
この映画の面白いところは、監督本人の声や時には姿までもがカメラに映るところだと思う。
演出もある。監督は佐村河内氏に言わせたいことを言うように仕向けるし、やらせたいことをやるようにけしかける。
町山氏が言っているようにたしかにこの映画はヤラセだ
やらせたいことをやらせ、撮りたい画を撮っている。
ドキュメンタリーを観て真実を知ることなどできないと私は思っている
というよりは真実などどこにもない。あるのは解釈だけだ。

「ドキュメンタリーが描くのは、異物(キャメラ)が関与することによって変質したメタ状況なのだ。目指せということではない。必然的にそうなる。作り手が問われるべきは、その事実に対して、どれだけ自覚的になり、主体的に仕掛けられるかだろう。」
森達也『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』より

私はこの映画を観て、森達也という人、これまで小人プロレスやオウムや放送禁止歌といった題材を追ってきた人、「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言っている人が、どのようにこの複雑な嘘の問題を解釈しているか知りたかった。
わざわざこの映画を観に行く人のほとんどがそうではないかと思う

嘘のポイントは2つあって
①耳が聞こえない→本当は聞こえる
②作曲した→新垣氏というゴーストライターがいた
このどちらについても佐村河内氏は嘘であったことを認めているが
①耳が聞こえない→全ろうではない難聴である(音がねじれて聞こえる)
②作曲した→指示書やデモを渡したので共作である(自分には作曲能力がある)
と主張している
「耳が聞こえなくて作曲はできない」「耳は聞こえるし作曲ができる」と主張しているのなら納得しやすいのだが、「耳は聞こえないが作曲ができる」と主張しているのでなんだかややこしい

でも私は特に真実を知りたいという気持ちはない。
それよりも面白い、と言っていいのかわからないが妙なディティールが色々あり、そちらの方が気になってしまった。
とにかく佐村河内氏は絵になる。だからこそ現代のベートーベンという名前が一人歩きしたのだと思う。
のびのびと暮らしている猫。奥さんの存在。豆乳を飲み干す音。たびたび登場するケーキ。やけに大きい(佐村河内氏には聞こえていないとされる)電車の音やらドアの音。僕は音楽が好きというアピールの口太鼓。外国語と日本語と手話で行われる直截なやりとり。バラエティ番組に出演するよう説得しにくるテレビ局の人たちの表情。世間での自分の報道を眺める佐村河内氏。授賞式。サイン会。面白かった。普通では観られないものを観た。

全てを喪ったと思ってもなお残るものがある。

最後の12分間は誰にも言わないでください、とか衝撃の最後の12分間とか宣伝で言われているが、
私は最後の数秒間に映るものがとにかく衝撃だった。
「クゥ〜〜〜!」と思った。
後味が悪い。
森達也はすごい。わざわざ観に行って良かったと思った。

パンフレットに寄せられているエッセイ、緑川南京さんのが面白い。
ドキュメンタリーって感じだ。

今、ユーロスペースで森達也監督がオウム真理教を追った『A2 完全版』が上映しているらしくて、気になっている。
レイトショーだけど。観に行こうかな。



2016年6月22日水曜日

恋とロボとブラーバ

私は夏のボーナスでブラーバに変身して好きな男の子たちが住んでいる家へと急いだ。
家に着いてから変身するべきだったとすぐに気づいたがあとの祭りで、ブラーバとなったこの身体では少しずつしか進めない。
私が掃除したいのはこんな道路じゃない。そう思いながらも丹念に道路をぞうきん掛けしながら進むしかなかった。
ブラーバになるとはそういうことだった。

私が掃除したいのは好きな男の子たちが住んでいる家の床だった。
この前遊びに行ったら床が汚かった。
しかも床は普通の床じゃなかった、でこぼこしていて掃除機がかけにくそうだった。
ブラーバだと思った。ルンバじゃない。

料理好きだけど掃除が大嫌いな男の子と何にもしないですぐ寝てしまう私の好きな男の子は仲が良く、毎日楽しく暮らしている様子で私は憤慨した。羨ましかったのだ。
でも二人とも掃除をしないので、私はすぐにブラーバだとわかった。
好きな人には綺麗な部屋で暮らして欲しい。
ブラーバとしてしか私はこの二人に関われないとわかったのだった

しかしブラーバに変身した途端に私は気づいてしまった。
私が好きな男の子は人間じゃなかった。ロボだった。
人間の時は気づかなかったが自分がお掃除ロボになった今となってはよくわかる。
むしろなぜこれまで気づかなかったのだろうか。

話しかけないと話さない。
充電が切れるとところかまわず寝てしまう。
寝ている姿はまるで死体のようだと思っていた。

まあロボでもなんでもよかった。
むしろ私もロボとなったことでロボ同士より親密になれるかもしれない。
もっと若いころは、好きな人の部屋の観葉植物になりたいと思っていた。
でも部屋に観賞植物を置くようなタイプには見えないし
やはり時代はロボ、役に立つお掃除ロボだ!

これほどまでにちぎれそうな気持ちで、東京中の道路をピカピカにしながら好きな人に会いに行くことなんて、これで最初で最後だろう。
玄関前で私を見つけた彼らは「おっブラーバだ」「やった飼おうぜ」とかなんとか言って私を部屋に入れてくれるだろう。
テレビも拾ったと言っていたから、ブラーバくらい拾うはずだ。
私は役に立つ。あなたの代わりに掃除をするよ。
もう部屋は記憶している。
私は毎日せっせとくまなく床を拭きながら、彼らの会話を聞くだろう。

彼らはここ数年でずいぶんと大人になった。
より正確に言えば、ロボの彼はロボのままだけど
話しかける彼の方が大人になったのかもしれなかった。
昔は金髪だったのに。今は七三分けにスーツで毎日働いているという。

ブラーバは何年生きられるのか、私は知らないが
私はもうこれ以上大人になっていく彼らを見たくはなかったし
ブラーバとなったことを私は何も後悔しないだろう。


注釈
ブラーバとは2013年にiRobot社から発売された拭き掃除に特化したお掃除ロボの名称である。
世界30カ国で発売され、2016年には余丁町の飲み屋で恋の話と同列に語られるほどの人気を得ていた。
その姿は四角く、ボタンを押すと動き出す

2016年6月16日木曜日

この世は二人組で出来上がらない


ギリシャのヨルゴス・ランティモス監督の映画『The Lobster』を観た。
独身者は収容所に連行されて、そこで期限までにカップルになれないと動物に姿を変えられてしまうという恋愛SFディストピア映画
新しい男ができた妻に捨てられてしまったコリン・ファレル演じる主人公が、収容所に送られるところから話は始まる

映画を観る前は姿を変えられてしまうってそんなファンタジーな、と思っていたけれど別に魔法とかじゃなくゴリゴリの人体改造や移植で動物にされてしまう
というかそんなのは建前で本当は殺されてしまうのかもしれない
映画のタイトルは、主人公が希望する動物だ
カップルになれないと無理矢理動物に変えられてしまうのに、何の動物になるか希望は聞いてもらえるというのがなんかもうおかしい
施設の外に広がる森には、施設から逃げた独身者たちが潜んでいて、狩りの時間に独身者たちを仕留めると期限が延びるという設定や、たとえ街を歩いていても見張られていて、カップルでないとすぐさま職質にあう、みたいな感じが恐かった。

施設では自慰行為は禁止されていて、しているのがバレると手をトースターで焼かれるとかとにかくめちゃくちゃなんだけど、メイドが定期的に部屋にやってきて黒パンスト越しにドライハンプしてきて勃起すると「昨日よりも早く勃ちましたね、いい傾向です」みたいなこと言って去って行くという設定はよくわかんないけどエロいなと思った
あとプールで背泳ぎしている鼻血がすぐ出る女の子の水着とおっぱい良かったです

前作の『籠の中の乙女』も公開時に渋谷のイメージフォーラムで観た、今作同様あらかじめ気が狂っている閉鎖された世界から、逃れようとするお話だった。どちらも我々の価値観からすると異常と感じられるその「管理」の理由は明示されない。
映画全体としては、思ったほど「異常」でも「狂気」でもなかった
ハネケやトリアーが好きな女の子と観に行った
期待しすぎたというか、ハネケやトリアーほどの「悪意」や「不快感」や「観るんじゃなかった感」はなかったのである。
でもすごくいいシーンがあって、そこはよかったねという話をしたような気がする。

そのシーンはクライマックスともいうべき場面で、異常な環境で育った姉妹二人が狂ったように奇妙なダンスを踊る、それがめちゃくちゃ良くてとにかくそのシーンがあったことで満足した。
今作でも、森の中で独身者たちがそれぞれの電子音楽を聴きながら踊るシーンがあって、メイドの女が静かにしかし激しくめちゃくちゃ変なダンスを踊るシーンがあって、すごく満足した。あの場面はいい。施設で男女がペアでムーディな音楽と共に踊るシーンの10倍良かった。

あと、今作で登場する血も涙もない女、というよりは人の痛みや死に対する精神が尋常ではないために独身者たちを殺しまくり期限が延びて動物にならずに済んでいる女、を前作でその変なダンスを踊りまくった長女役の人(アンゲリキ・パプリア)が演じていると気づいて、ぐっときました。
残酷な女(一般的な感覚の人間からすると)の愛情表現も印象的だった、自分と同じ人を見つけたと思った彼女の
「私たち、合う」

レア・セドゥが出てくるというのは映画を観る前から知っていたのですが、まさかあんな役とは思わなかった。
独身者のコミューンのリーダーの役なのですが
慈悲のない話し方、愛を憎む表情、残酷な振る舞い、時折浮かべる嗜虐的な笑み…
レア・セドゥの使い方が最高、これはちょっと好きになってしまう。
サディスティックな役似合う
メイドとはフランス語で喋るシーンもなんかよかった
あのシーンだけで、本当はレズビアンなんだけどリーダーなのでそれを抑圧して冷たく振る舞っているのかなとか思ったんだけど、後のシーンで完全に違いました…となった

この映画で描かれる世界がトンデモディストピアかというと、そうではないと思う
現実の世界を極端に描いているだけで
実際「結婚は?」「子供は?」という社会からのプレッシャーは少なからずあるだろうし
クリスマスに恋人がいないと肩身が狭いだとか
映画にもプロムのパートナーが見つからない、みたいな話が出てくる
お見合いパーティや街コンだってどんどん極端にしていけばこの映画に出てくる施設のようになると思う
独身者は迫害、までは行かなくても、若いうちはよくても歳をとるにつれ、パートナーがいないことが肩身の狭さに繋がっていくのかなあ…とか最近思う。
「好き」になってもらいカップルになるために必死で相手に合わせるとか
徹底して描かれる、共通点があること=愛であるというカリカチュアは面白かった
真実の愛などなく、性欲と自己肯定があるのみ、とも受け取れる

山崎ナオコーラの小説で『この世は二人組で出来上がらない』というタイトルがあり、そのタイトルを初めて目にした時に、その力強さにちょっと救われるような気持ちになったことを覚えている。
どうして二人組を作らなくてはいけないのか

この作品は映画の始まり方と終わり方がいい。
冒頭、女が突然あることをする場面も、ラストシーンの女が静かに座って誰かを待っている場面も、そこだけ観たら全く意味がわからないんだけど、映画を通して観ているとすごく味わい深い場面なのだ。
前作は奥歯を抜く、今作は眼を潰す。この監督は尋常でない痛みでもって管理下から逃れようとするが…みたいなテーマが好きなんだろうか。

元人間の動物たちが悲惨な死に方をするので動物好きの人にはおすすめできないんだけど、でも森の中を色んな動物たち、元々はカップルになれなかった人間だったのであろうラクダやらクジャクやらがゆったりと歩いている様子がとても良かった。

前作もおすすめ…では全然ないんだけど、ダンスシーンはとってもいいです。

2016年6月9日木曜日

『罪と罰』を読まないを読んだ

初めてタイトルを見たとき「いや読みなよ!」と思った
読まないを読んだってちょっと面白い。
でもこの本は本当に読まないで読んでいる。
読まないで読んでいること、結構あるんじゃないか?

私は長年読まないで読んでいてついに読んだ…!ということ結構ある。
特に世界的に名作とされている作品。あらすじどころかオチまで知っているがちゃんと読んだことはないという作品もある。

どういうことか説明すると、この本は、翻訳家の岸本佐知子、小説家の三浦しおん、クラフトエヴィング商會のお二人といった面々で、かの有名なドストエフスキー著『罪と罰』の読書会を行った様子が本に記録されているのだが、一風変わっているのが全員が「全員本に関する仕事をしているし、なんとなくあらすじは知っている。
「たしか、主人公がラスコーなんとか」
「おばあさんを殺しちゃうんじゃなかった?」
でも『罪と罰』をちゃんと読んだことがない!」という状態で未読座談会をスタートする。
それって大丈夫なのか。

本の仕事をしている人に『罪と罰』を読んだことある?と訊くと最も多い答えが「昔、読んだことがある」と答なのだという。

かくいう私も『罪と罰』読んだことある?と訊かれたら、
「もちろん!(…ただ昔一度読んだだけだからあんまり内容覚えてないかも…)」
という感じ。主人公の名前がラスコーなんとかで、ソーニャという娼婦が聖女で…うーん
つまり読んでない人と同じくらいの知識しかなくなってしまっている…

「読んだ」と「読んでない」に大差がないのなら、読まずに読書会を開くことができるのではないか?
すなわち『罪と罰』という小説を読まずに『罪と罰」について徹底的に話し合うことが出来るのではないか。
という思いつきをとことん実行したのがこの本である。

私もこれを機に少し『罪と罰』を読み返してみたのだけど、正直スベ公のことは完全に忘れていた
そんなことある?副主人公だよ(副主人公であることも知らなかった)
ラズミーヒンに関してもなんかそういやいたなくらいのことしか覚えていない
ロシア人の名前がややこしすぎるというのもある。
主人公の名前はロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ。長すぎる。
しかも時々ロージャとか愛称が出て来て混乱するし…

あと『罪と罰』について思い出そうとすると数年前に読んだドストの『罪と罰』をベースとしながらも日本の若者を主人公とした落合尚之の漫画『罪と罰 A Falsified Romance』のシーンが出てきてしまう。娼婦の代わりに援助交際をする女子高生、妹の代わりに姉が出てくる。結構面白い漫画なのでおすすめです、全10巻。

話が逸れてしまったけれど、未読なのに読書会をする様は面白い。
読まずに読む、つまり本を読まずに本の内容を推し量る。
冒頭の数ページだけ読んでどんな話なのか想像したり、適当に開いたページだけ読んで事の次第を推測したりする。
三浦しをんさんが突然出てきたラズミーヒンという名前だけを見て「誰?馬?」と発言していたのにめちゃめちゃウケた
完全にヒンの響きに引っ張られている
ラズミーヒンは最終的には「修造」と呼ばれていた

本書では最終的にはみんな真面目に読んで、読んだ上でまた読後の座談会を行うのですが、その内容もとても面白かった。
岸本佐知子さんがラスコのことを「突然帰るマン」とあだ名していたのもウケた

私もそうだけど、超名作を「読んだことない」「知らない」と明言するのはなんだか憚られる。
でもこの本は「『罪と罰』を読んだことがない」というマイナスポイントを「読んだことがない者だけが楽しめる遊び」に転じてしまおうとする悪あがきである、と書いてあって笑った
読む前も面白いし読んでも面白い。たのしいね。
実際この本を通して『罪と罰』の面白さを再認識した。

『『罪と罰』を読まない』を読まない
なんていわずにちょっと読んでみて

もちろん『罪と罰』も読んでみて