ということをあちこちで言い触らしている。
言い触らしていたらいいことがあって、
多和田葉子『百年の散歩』
タイトルを聞いてメモした時に「散歩」
表紙も好きな感じ。よく見るとベルリンのシルエット。
ベルリンに行きます。もちろん。ベルリン初めて。
ベルリンに行かないでヴェネツィアに行くというプランもあるには
ベルリン。行ってみたいでしょう。やはり。
旅の主目的はカッセルであり、ベルリンは言わばついでなのだが、
ベルリンという街に最初に想いを馳せたのはたぶん『舞姫』
高校の教科書とかに載っていて。
ウンテルデルリンデン…頭の中で鳴り響いたことを今でも覚えている。国語の授業中。ただし『舞姫』の授業ではなかった。私はいつも教科書の授業に全然関係ないページを読んでいたような気がする。
ウンテルデルリンデン、この響き高校生はみんな好きだと思う。
本を手に取ってまず帯に書いてあることに惹きつけられた
わたしは今日もあの人を待っている、そして裏の帯にはこうあるベルリンの通りを歩きながら。
都市は官能の遊園地、革命の練習舞台、孤独を食べるレストラン、惹句だなあと思う。言語的高まり。言葉の作業場。
多和田さんの本をちゃんと読んだことなし。
群像の変愛小説特集に収められていた変愛小説は読んだ。驚きの。漢字が走りながら分解していく。
趣味をもたなければどんな魅惑の味も未だ口に入らぬうちに人生を走り抜くための走力を抜き取られて老衰するという具合に。
あと「グレゴール・ザムザがある朝のこと、
なんかドイツ語でも小説を書いているらしいとか、
表紙も奇妙でかわいいなあと思いながらページをめくり目次をみると、
カント通り Kantstraße
カール・マルクス通り Karl-Marx-Straße
マルティン・ルター通り Martin-Luther-Straße
レネー・シンテニス広場 Renee-Sintenis-Platz
ローザ・ルクセンブルク通り Rosa-Luxemburg-Straße
プーシキン並木通り Puschkinallee
リヒャルト・ワーグナー通り Richard-Wagner-Straße
コルヴィッツ通り Kollwitzstraße
トゥホルスキー通り Tucholskystraße
マヤコフスキーリング Majakowskiring
最後だけリングってなんだろうと思った。読めばわかる。輪になっている通りのことだった。
パリに初めて行ったときも思ったことだが、日常的に死者の名前が連呼されるというのは不思議な感じがする。
日本は森鴎外通りとか森茉莉広場とかない。
グーグルマップも死者の名だらけで
芸術や思想によりこの街を作り上げ、死んでいった人たちの名前が連なる。
読み始めようとして、一番最初の章のタイトルが「カント通り」
この夏、ドイツ国鉄でベルリンに着いた我々はまず、
そしてそのツォー駅(ZOO)で降りて、
ベルリンに長く住んでいる日本人であるらしい「わたし」
小説に出てくる黒い奇異茶店はシュバルツェス・
宿を探しながら、
FUTONという名のベッド屋も探す。しぇるしぇ。のん。あろ。だこ。
要するにすぐにこの小説に魅入られ、興奮していったん本を置き、ダンスを踊った。
もちろん、突然恋に落ちたが如く一冊の本に夢中になり、
本をすぐ読み終えてしまうのはもったいないという価値観があり、
だからかもしれないが、本を読むという行為は私の中でさらに細分化されていて、
①寝る前にベッドに持ち込んで読む本、
②部屋をひとしきり片づけたあと、
③泣いている。絶望している。
④風呂で読む本。しわしわになる。
⑤ご飯を食べながら読む本。お行儀がわるい。それらは食卓に置きっぱなし。子供のころ「
⑥勉強机に向かって読む本。難しい本。勉強の気持ち。それらは買っただけで勉強した気になることもあるので注意が必要。図書館で読むこともある。
⑦会社の昼休みに読む本。はあんまりない。
⑧外出先で読む本。電車の中で、公園で、喫茶店で、あの人を待ちながら、
話がだいぶ逸れたがこの『百年の散歩』は短編集だから①
そしてさらに言えば、外出するけれど誰にも会わない日の本でし
東京をさまよう合間に本を読み進めると、
誰に会うでもなく六本木をひとりでさまよっていた私が疲れて本を開くと「わたし」と私は似た様なことを考えている。
声をかけてくるのは、きっとわたしが捜している人ではない。公共の空間に身をさらし続けることに疲れてきた。しめった悲しさが背後に迫ってくる。閉じられた空間、守られた暖かい場所に潜り込みたい。この一節を読んで、もう今日はおうちに帰りましょうと自分の足に呼びかけた。
誰と会う約束がなくても、街に出て映画を観て、本を読んで、芝居を観て、孤独を食べ、
街全体が本でもあり、劇場でもある。
「わたし」は行く先々で、見えないものを覗き見る。それはベルリンならではの街の記憶であったりもする。
そしてベルリンのどこにいても絶えず想起され、言及される「あの人」
「あの人」は実在しているのだろうか…と半ば疑いながら読み進めていくと
気が付くと私の「あの人」について考え始めている
東京の散歩者、小さな革命家、私のヴァルター・ベンヤミン
「あの人」は今どこにいるの。
果たしてそんな人本当に存在しているのか。
私も「わたし」もお互い誰とも会わないまま1日が終わる。
会うということがとんでもない僥倖のように感じられてくる。
時間を決めて、場所を決めて、待ち合わせして、約束の時間を楽しみにして、会った後は、そのことを日記に書いて、何度も思い出してしかし「わたし」はだんだんと諦め始める。
期待して、待っても、今日、あの人はきっとこないだろう。百年の散歩を鞄に入れて散歩し、時々読むという日々を幾日か経て、私は本を読み終わった。
ベルリンに行く前に読んでよかった。
「わたし」の歩いた道をグーグルマップでなぞり、ストリートビューで見てみたりした。
私は「躓きの石 Stolpersteine」のこともこの本を読むまで知らなかった。ナチスの犠牲者の名が刻まれていて、その人たちがナチスに捕らえられるまで実際に住んでいた場所の前にそれはあるという。躓くたびに思い出すように。
私は田舎に住むことはできないと思う。
主人公と同様に、週末になると匿名の体になりたくてわざわざ都会の、
自分は孤独だと認めてしまうのは気持ちがいい。「百年の、」と言いかけると「孤独」と口が言ってしまう。春だからこそできること。 孤独だなんて最悪の敗北宣言ではあるけれど。 友達が見つからなかった、恋人が見つからなかった、 家族が作れなかった、仕事がない、住むところがない。 そうなっても誰もじろじろ見たりしないから、 平気で歩き回れるのが大都市だ。
一番最後の章で「わたし」と「あの人」の関係性が明らかになって、それまで私は「わたし」を私に引き寄せて読んでいたものだから、私は誰か他人と一緒に暮らせるだろうかと遠い気持ちになった。
一緒に暮らすより、いつまでも街のどこかで待ち合わせたいような気がする。頭の片隅でもう二度と会えないことだってあるかもしれないと思って何度も顔を見ながら話したいような気がする。
もちろん恋の要素がときめきだけではないことを知っている。多くの時間を共有することで作り上げられた親密さとやすらぎには、ときめきの減少を補ってあまりある幸福感があるかもしれない。
でもどこかでときが永遠にめきつづける夢を見てしまう。
『百年の散歩』に登場する通りと広場 |
本を読み終えた後で、新潮に掲載された多和田葉子と堀江敏幸の対談「ベルリンの奇異茶店から世界へ」を読んだ。
堀江さんが目次裏の地図を、都市の遺伝子情報の顕微鏡写真みたいだと述べているのが面白かった。
散歩者は都市の遺伝子の綻びを見つけては顔を綻ばせ写真を撮ったりする。
フラヌールはドイツ語でいうとFlanierenらしい。
私は旅行先で、せっかくはるばる来たのだから全ての建築を全ての景色をすべてこの目で見てすべて写真に納めなくてはわわわわわわわ状態に陥り、とにかく焦ってしまいがちである。
この夏、ベルリンを訪れたら「わたし」を真似て少しでも百年の散歩をしてみたい。