2016年6月23日木曜日

FAKE

森達也監督のドキュメンタリー映画『FAKE』を観た。
すごく面白かった。観終わった後、普段あまりパンフレットは買わないのだけど、思わず買ってしまった。
渋谷のユーロスペースで観た。下の階の昔オーディトリウムだったところのスクリーンも使って、上映回数を増やしていたにも関わらず、かなり混雑していた。

私はあまりテレビを観ない。
ちょうど2014年は引っ越したばかりで家にテレビがなかった。
そのためか、あまりこの一連の事件とそれに関するテレビでの報道についてよく知らないまま映画を観た。
ご多分に漏れず私も公開前に町山評の文字起こしを読んだ。それでこの映画のことを知り、興味を持った。
この映画の面白いところは、監督本人の声や時には姿までもがカメラに映るところだと思う。
演出もある。監督は佐村河内氏に言わせたいことを言うように仕向けるし、やらせたいことをやるようにけしかける。
町山氏が言っているようにたしかにこの映画はヤラセだ
やらせたいことをやらせ、撮りたい画を撮っている。
ドキュメンタリーを観て真実を知ることなどできないと私は思っている
というよりは真実などどこにもない。あるのは解釈だけだ。

「ドキュメンタリーが描くのは、異物(キャメラ)が関与することによって変質したメタ状況なのだ。目指せということではない。必然的にそうなる。作り手が問われるべきは、その事実に対して、どれだけ自覚的になり、主体的に仕掛けられるかだろう。」
森達也『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』より

私はこの映画を観て、森達也という人、これまで小人プロレスやオウムや放送禁止歌といった題材を追ってきた人、「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言っている人が、どのようにこの複雑な嘘の問題を解釈しているか知りたかった。
わざわざこの映画を観に行く人のほとんどがそうではないかと思う

嘘のポイントは2つあって
①耳が聞こえない→本当は聞こえる
②作曲した→新垣氏というゴーストライターがいた
このどちらについても佐村河内氏は嘘であったことを認めているが
①耳が聞こえない→全ろうではない難聴である(音がねじれて聞こえる)
②作曲した→指示書やデモを渡したので共作である(自分には作曲能力がある)
と主張している
「耳が聞こえなくて作曲はできない」「耳は聞こえるし作曲ができる」と主張しているのなら納得しやすいのだが、「耳は聞こえないが作曲ができる」と主張しているのでなんだかややこしい

でも私は特に真実を知りたいという気持ちはない。
それよりも面白い、と言っていいのかわからないが妙なディティールが色々あり、そちらの方が気になってしまった。
とにかく佐村河内氏は絵になる。だからこそ現代のベートーベンという名前が一人歩きしたのだと思う。
のびのびと暮らしている猫。奥さんの存在。豆乳を飲み干す音。たびたび登場するケーキ。やけに大きい(佐村河内氏には聞こえていないとされる)電車の音やらドアの音。僕は音楽が好きというアピールの口太鼓。外国語と日本語と手話で行われる直截なやりとり。バラエティ番組に出演するよう説得しにくるテレビ局の人たちの表情。世間での自分の報道を眺める佐村河内氏。授賞式。サイン会。面白かった。普通では観られないものを観た。

全てを喪ったと思ってもなお残るものがある。

最後の12分間は誰にも言わないでください、とか衝撃の最後の12分間とか宣伝で言われているが、
私は最後の数秒間に映るものがとにかく衝撃だった。
「クゥ〜〜〜!」と思った。
後味が悪い。
森達也はすごい。わざわざ観に行って良かったと思った。

パンフレットに寄せられているエッセイ、緑川南京さんのが面白い。
ドキュメンタリーって感じだ。

今、ユーロスペースで森達也監督がオウム真理教を追った『A2 完全版』が上映しているらしくて、気になっている。
レイトショーだけど。観に行こうかな。



2016年6月22日水曜日

恋とロボとブラーバ

私は夏のボーナスでブラーバに変身して好きな男の子たちが住んでいる家へと急いだ。
家に着いてから変身するべきだったとすぐに気づいたがあとの祭りで、ブラーバとなったこの身体では少しずつしか進めない。
私が掃除したいのはこんな道路じゃない。そう思いながらも丹念に道路をぞうきん掛けしながら進むしかなかった。
ブラーバになるとはそういうことだった。

私が掃除したいのは好きな男の子たちが住んでいる家の床だった。
この前遊びに行ったら床が汚かった。
しかも床は普通の床じゃなかった、でこぼこしていて掃除機がかけにくそうだった。
ブラーバだと思った。ルンバじゃない。

料理好きだけど掃除が大嫌いな男の子と何にもしないですぐ寝てしまう私の好きな男の子は仲が良く、毎日楽しく暮らしている様子で私は憤慨した。羨ましかったのだ。
でも二人とも掃除をしないので、私はすぐにブラーバだとわかった。
好きな人には綺麗な部屋で暮らして欲しい。
ブラーバとしてしか私はこの二人に関われないとわかったのだった

しかしブラーバに変身した途端に私は気づいてしまった。
私が好きな男の子は人間じゃなかった。ロボだった。
人間の時は気づかなかったが自分がお掃除ロボになった今となってはよくわかる。
むしろなぜこれまで気づかなかったのだろうか。

話しかけないと話さない。
充電が切れるとところかまわず寝てしまう。
寝ている姿はまるで死体のようだと思っていた。

まあロボでもなんでもよかった。
むしろ私もロボとなったことでロボ同士より親密になれるかもしれない。
もっと若いころは、好きな人の部屋の観葉植物になりたいと思っていた。
でも部屋に観賞植物を置くようなタイプには見えないし
やはり時代はロボ、役に立つお掃除ロボだ!

これほどまでにちぎれそうな気持ちで、東京中の道路をピカピカにしながら好きな人に会いに行くことなんて、これで最初で最後だろう。
玄関前で私を見つけた彼らは「おっブラーバだ」「やった飼おうぜ」とかなんとか言って私を部屋に入れてくれるだろう。
テレビも拾ったと言っていたから、ブラーバくらい拾うはずだ。
私は役に立つ。あなたの代わりに掃除をするよ。
もう部屋は記憶している。
私は毎日せっせとくまなく床を拭きながら、彼らの会話を聞くだろう。

彼らはここ数年でずいぶんと大人になった。
より正確に言えば、ロボの彼はロボのままだけど
話しかける彼の方が大人になったのかもしれなかった。
昔は金髪だったのに。今は七三分けにスーツで毎日働いているという。

ブラーバは何年生きられるのか、私は知らないが
私はもうこれ以上大人になっていく彼らを見たくはなかったし
ブラーバとなったことを私は何も後悔しないだろう。


注釈
ブラーバとは2013年にiRobot社から発売された拭き掃除に特化したお掃除ロボの名称である。
世界30カ国で発売され、2016年には余丁町の飲み屋で恋の話と同列に語られるほどの人気を得ていた。
その姿は四角く、ボタンを押すと動き出す

2016年6月16日木曜日

この世は二人組で出来上がらない


ギリシャのヨルゴス・ランティモス監督の映画『The Lobster』を観た。
独身者は収容所に連行されて、そこで期限までにカップルになれないと動物に姿を変えられてしまうという恋愛SFディストピア映画
新しい男ができた妻に捨てられてしまったコリン・ファレル演じる主人公が、収容所に送られるところから話は始まる

映画を観る前は姿を変えられてしまうってそんなファンタジーな、と思っていたけれど別に魔法とかじゃなくゴリゴリの人体改造や移植で動物にされてしまう
というかそんなのは建前で本当は殺されてしまうのかもしれない
映画のタイトルは、主人公が希望する動物だ
カップルになれないと無理矢理動物に変えられてしまうのに、何の動物になるか希望は聞いてもらえるというのがなんかもうおかしい
施設の外に広がる森には、施設から逃げた独身者たちが潜んでいて、狩りの時間に独身者たちを仕留めると期限が延びるという設定や、たとえ街を歩いていても見張られていて、カップルでないとすぐさま職質にあう、みたいな感じが恐かった。

施設では自慰行為は禁止されていて、しているのがバレると手をトースターで焼かれるとかとにかくめちゃくちゃなんだけど、メイドが定期的に部屋にやってきて黒パンスト越しにドライハンプしてきて勃起すると「昨日よりも早く勃ちましたね、いい傾向です」みたいなこと言って去って行くという設定はよくわかんないけどエロいなと思った
あとプールで背泳ぎしている鼻血がすぐ出る女の子の水着とおっぱい良かったです

前作の『籠の中の乙女』も公開時に渋谷のイメージフォーラムで観た、今作同様あらかじめ気が狂っている閉鎖された世界から、逃れようとするお話だった。どちらも我々の価値観からすると異常と感じられるその「管理」の理由は明示されない。
映画全体としては、思ったほど「異常」でも「狂気」でもなかった
ハネケやトリアーが好きな女の子と観に行った
期待しすぎたというか、ハネケやトリアーほどの「悪意」や「不快感」や「観るんじゃなかった感」はなかったのである。
でもすごくいいシーンがあって、そこはよかったねという話をしたような気がする。

そのシーンはクライマックスともいうべき場面で、異常な環境で育った姉妹二人が狂ったように奇妙なダンスを踊る、それがめちゃくちゃ良くてとにかくそのシーンがあったことで満足した。
今作でも、森の中で独身者たちがそれぞれの電子音楽を聴きながら踊るシーンがあって、メイドの女が静かにしかし激しくめちゃくちゃ変なダンスを踊るシーンがあって、すごく満足した。あの場面はいい。施設で男女がペアでムーディな音楽と共に踊るシーンの10倍良かった。

あと、今作で登場する血も涙もない女、というよりは人の痛みや死に対する精神が尋常ではないために独身者たちを殺しまくり期限が延びて動物にならずに済んでいる女、を前作でその変なダンスを踊りまくった長女役の人(アンゲリキ・パプリア)が演じていると気づいて、ぐっときました。
残酷な女(一般的な感覚の人間からすると)の愛情表現も印象的だった、自分と同じ人を見つけたと思った彼女の
「私たち、合う」

レア・セドゥが出てくるというのは映画を観る前から知っていたのですが、まさかあんな役とは思わなかった。
独身者のコミューンのリーダーの役なのですが
慈悲のない話し方、愛を憎む表情、残酷な振る舞い、時折浮かべる嗜虐的な笑み…
レア・セドゥの使い方が最高、これはちょっと好きになってしまう。
サディスティックな役似合う
メイドとはフランス語で喋るシーンもなんかよかった
あのシーンだけで、本当はレズビアンなんだけどリーダーなのでそれを抑圧して冷たく振る舞っているのかなとか思ったんだけど、後のシーンで完全に違いました…となった

この映画で描かれる世界がトンデモディストピアかというと、そうではないと思う
現実の世界を極端に描いているだけで
実際「結婚は?」「子供は?」という社会からのプレッシャーは少なからずあるだろうし
クリスマスに恋人がいないと肩身が狭いだとか
映画にもプロムのパートナーが見つからない、みたいな話が出てくる
お見合いパーティや街コンだってどんどん極端にしていけばこの映画に出てくる施設のようになると思う
独身者は迫害、までは行かなくても、若いうちはよくても歳をとるにつれ、パートナーがいないことが肩身の狭さに繋がっていくのかなあ…とか最近思う。
「好き」になってもらいカップルになるために必死で相手に合わせるとか
徹底して描かれる、共通点があること=愛であるというカリカチュアは面白かった
真実の愛などなく、性欲と自己肯定があるのみ、とも受け取れる

山崎ナオコーラの小説で『この世は二人組で出来上がらない』というタイトルがあり、そのタイトルを初めて目にした時に、その力強さにちょっと救われるような気持ちになったことを覚えている。
どうして二人組を作らなくてはいけないのか

この作品は映画の始まり方と終わり方がいい。
冒頭、女が突然あることをする場面も、ラストシーンの女が静かに座って誰かを待っている場面も、そこだけ観たら全く意味がわからないんだけど、映画を通して観ているとすごく味わい深い場面なのだ。
前作は奥歯を抜く、今作は眼を潰す。この監督は尋常でない痛みでもって管理下から逃れようとするが…みたいなテーマが好きなんだろうか。

元人間の動物たちが悲惨な死に方をするので動物好きの人にはおすすめできないんだけど、でも森の中を色んな動物たち、元々はカップルになれなかった人間だったのであろうラクダやらクジャクやらがゆったりと歩いている様子がとても良かった。

前作もおすすめ…では全然ないんだけど、ダンスシーンはとってもいいです。

2016年6月9日木曜日

『罪と罰』を読まないを読んだ

初めてタイトルを見たとき「いや読みなよ!」と思った
読まないを読んだってちょっと面白い。
でもこの本は本当に読まないで読んでいる。
読まないで読んでいること、結構あるんじゃないか?

私は長年読まないで読んでいてついに読んだ…!ということ結構ある。
特に世界的に名作とされている作品。あらすじどころかオチまで知っているがちゃんと読んだことはないという作品もある。

どういうことか説明すると、この本は、翻訳家の岸本佐知子、小説家の三浦しおん、クラフトエヴィング商會のお二人といった面々で、かの有名なドストエフスキー著『罪と罰』の読書会を行った様子が本に記録されているのだが、一風変わっているのが全員が「全員本に関する仕事をしているし、なんとなくあらすじは知っている。
「たしか、主人公がラスコーなんとか」
「おばあさんを殺しちゃうんじゃなかった?」
でも『罪と罰』をちゃんと読んだことがない!」という状態で未読座談会をスタートする。
それって大丈夫なのか。

本の仕事をしている人に『罪と罰』を読んだことある?と訊くと最も多い答えが「昔、読んだことがある」と答なのだという。

かくいう私も『罪と罰』読んだことある?と訊かれたら、
「もちろん!(…ただ昔一度読んだだけだからあんまり内容覚えてないかも…)」
という感じ。主人公の名前がラスコーなんとかで、ソーニャという娼婦が聖女で…うーん
つまり読んでない人と同じくらいの知識しかなくなってしまっている…

「読んだ」と「読んでない」に大差がないのなら、読まずに読書会を開くことができるのではないか?
すなわち『罪と罰』という小説を読まずに『罪と罰」について徹底的に話し合うことが出来るのではないか。
という思いつきをとことん実行したのがこの本である。

私もこれを機に少し『罪と罰』を読み返してみたのだけど、正直スベ公のことは完全に忘れていた
そんなことある?副主人公だよ(副主人公であることも知らなかった)
ラズミーヒンに関してもなんかそういやいたなくらいのことしか覚えていない
ロシア人の名前がややこしすぎるというのもある。
主人公の名前はロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ。長すぎる。
しかも時々ロージャとか愛称が出て来て混乱するし…

あと『罪と罰』について思い出そうとすると数年前に読んだドストの『罪と罰』をベースとしながらも日本の若者を主人公とした落合尚之の漫画『罪と罰 A Falsified Romance』のシーンが出てきてしまう。娼婦の代わりに援助交際をする女子高生、妹の代わりに姉が出てくる。結構面白い漫画なのでおすすめです、全10巻。

話が逸れてしまったけれど、未読なのに読書会をする様は面白い。
読まずに読む、つまり本を読まずに本の内容を推し量る。
冒頭の数ページだけ読んでどんな話なのか想像したり、適当に開いたページだけ読んで事の次第を推測したりする。
三浦しをんさんが突然出てきたラズミーヒンという名前だけを見て「誰?馬?」と発言していたのにめちゃめちゃウケた
完全にヒンの響きに引っ張られている
ラズミーヒンは最終的には「修造」と呼ばれていた

本書では最終的にはみんな真面目に読んで、読んだ上でまた読後の座談会を行うのですが、その内容もとても面白かった。
岸本佐知子さんがラスコのことを「突然帰るマン」とあだ名していたのもウケた

私もそうだけど、超名作を「読んだことない」「知らない」と明言するのはなんだか憚られる。
でもこの本は「『罪と罰』を読んだことがない」というマイナスポイントを「読んだことがない者だけが楽しめる遊び」に転じてしまおうとする悪あがきである、と書いてあって笑った
読む前も面白いし読んでも面白い。たのしいね。
実際この本を通して『罪と罰』の面白さを再認識した。

『『罪と罰』を読まない』を読まない
なんていわずにちょっと読んでみて

もちろん『罪と罰』も読んでみて

2016年5月26日木曜日

人殺しの絵と呼ばれて

挟まれてるのにカメラ目線
こないだの日曜日に、上野の西洋美術館でやっているカラヴァッジョ展を観てきた。

上野公園は若冲展の激混みがとにかく目立っていたが、カラヴァッジョ展はそこそこな混み具合だった。
若冲展がしょっちゅう行われていることを考えると、これだけまとまった数のカラヴァッジョの作品が観られる展示の方が混んで良さそうなものなのに。
しかも今回の展示では日本初公開の作品がある。

今回の展示の目玉は《法悦のマグダラのマリア》という作品で、長い間行方不明で2014年に発見されたという。
カラヴァッジョが殺人の罪を犯してローマを逃亡した1606年の夏に描かれたもので、その4年後にカラヴァッジョは死んだ。死んだときの持ち物の一つがこの絵で、サインが入っていないために本当にカラヴァッジョの真筆であるかわからなったが、研究の結果これは真筆である!と決まったのだそう。
その絵が今回の展示で世界初公開された。

人を殺した後に宗教画を描くのはどんな気持ちだろう。
でも超神聖な気持ちで描いたわけではないと思う、むしろ世俗的な気持ち。
「法悦の」って正確にはどういう意味かなと思って辞書を引いた。たぶん「超…最高です!」みたいな意味だと思うんだけど。
そしたら「仏教の教えを聞き、または味わって喜ぶこと。転じてなんらかの状態において生じる恍惚感をもいう。」だって。仏教?

カラヴァッジョ《法悦のマグダラのマリア》

深い闇の中で白くはだけた肩、半開きの口、薄く開かれた白目、弛緩しきった表情。カラヴァッジョの描いたマグダラのマリアは神に救われて恍惚…というよりは性的なエクスタシーに達しているように見えた
というか色を失って死にかけているようにすら見える。
諸説あるけど、聖書においてマグダラのマリアはキリストの死と復活を見届ける証人だとか、悔悛する罪深き女といった役回りで、娼婦だったとかイエスと結婚していたとか色々と言われる女性なんだけど
今観てもセンセーショナルでドキドキする絵だな、と思うので当時の人が観たらヒャー(チラッ)という感じだったのではと想像した
人を殺さないと描けない絵だ、とかも言われている。

カラヴァッジョ《メドゥーサ》
あと楯にメドゥーサの生首が描いてあるのも観た。ウオーッという感じ。
メドゥーサはどこ見てるのかな。でも目が合うと石になっちゃ
他にも斬首をテーマにした絵がたくさん展示してあった。ホロフェルネスの首を斬るユディトとか。ゴリアテの首を持つダビデとか。

挟まれちゃってアウチ!みたいな絵とか、自分に恋しちゃったナルキッソスの絵とかもよかったな〜
今までに何度もナルキッソスの話を見聞きしたけど、水面に映った自分に恋?そんな笑と思っていたけど、マジ恋しちゃった感が出ていてよかった。
半開きの口、抱こうとして差し入れる手。本当に気づいていない。自分が恋している相手が自分だということに。

カラヴァッジョ《メドゥーサ》
カラヴァッジョのフォロワーのことをカラヴァジェスキというらしい。
今回の展示だって、展示されている絵の全てがカラヴァッジョによる作品というわけではなく、大半はカラヴァジェスキにおる作品だった。それでもこんなに沢山のカラヴァッジョの作品が集まるのはすごいことらしい。イタリアの美術館でもこんなに一度に観られないとか。
カラヴァジェスキだけどカラヴァッジョのこと嫌いという人(ジョバンニ・バリオーネ)もいるらしいので複雑だ
バリオーネはカラヴァッジョのこと嫌いすぎて訴えたりもしていたのに、後世の人にはカラヴァジェスキとくくられてしまってちょっとかわいそう。

アルテミジア・ジェンティレスキ《悔悛のマグダラのマリア》
カラヴァッジョのマリアと共に展示されていた、このマグダラのマリアは完全にエッチでしょ。キリストに救われて云々とかじゃない、エッチ目的で描いたでしょ。と思ったんだけど、これはアルテミジア・ジェンティレスキという有名なカラヴァジェスキの女性画家が描いた絵だった。
当時、女性の画家というだけでとても珍しかったらしい。
この人の描いたホロフェルネスの首を斬るユディトを以前観たことがあって、すごい怖い…と思ったんだけど、後にジェンダー研究の本で男性社会への怒りを表現したと書いてあるのを読んで思わずなるほど…と思ってしまった。

展示の終わりにあったエッケ・ホモ、この人を見よ。というタイトルの絵を観た瞬間に「この人を見よ~この人こそ~」という讃美歌が頭の中で鳴り響いて止まらなくなった。人となりたる、活ける神なれ。
昔聖書を読んだり牧師の説教を聞いたりしたことは、キリスト教信仰をテーマとする美術作品を理解するのに役に立っていると思う
聖書におけるエピソードを知っているのと知らないのとでは大きく違うと思う。

常設展を観たら、建築模型が展示されていて感慨深かったです。
私も作ったことがある。
あと図面をトレースしたこともある。

版画の展示室では"描かれた夢解釈――醒めて見るゆめ/眠って見るうつつ”という展示をやっていた。
いつも通りアルブレヒト・デューラーとかオディロン・ルドンとか

秋にクラーナハ展をやるという。サブタイトルが奮っていて、クラーナハ、500年後の誘惑。
誘惑されたくない?500年の時を経て。

本のタイトル、リズムがよくて言いたくなる
もっと知りたいカラヴァッジョ
そして言うともっと知りたくなる

2016年5月25日水曜日

RCOがやってくる



ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団のドキュメンタリー映画を観た。
本当にいい映画で、色んな国の様々な人の人生とそれらを一つに結んできた音楽のことを考えて、少し泣いてしまった。

クラシック音楽を全く聴かない人でもこのオーケストラの名前をどこかで聞いたことがあるかもしれない。
ベルリンフィルやウィーンフィルに並ぶ、オランダの有名なオーケストラ

この映画はロイヤルコンセルトヘボウが2013年に行ったワールドツアーの様子をエディ・ホニグマンが撮ったドキュメンタリー
1年に50公演も行ったというからすごい。
ブルックナー7番に始まり、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチ、マーラーと様々な交響曲が登場する。
様々な国を旅する様は、ロードムービーのようでもあった

オーケストラのメンバーへのインタビューと、様々な国のクラシック音楽を愛する人たちへのインタビューとで構成されているのがとても良かった。
ブエノスアイレスのタクシー運転手、南アのスチールバンドで演奏する少女、黒人だからという理由でバイオリンを習えなかった音楽教師、サンクトペテルブルクに暮らす老人…
私とは生きている国も時代も生い立ちも全く異なる人たちで共感することすらできないのだけど、同じ曲を、同じオーケストラの演奏を聴いて強く心を動かされている、その一点で私と彼らが重なると思うと心強い気持ちになった。別々に生きているしわかりあえなくても、この瞬間は同じ旋律を聴いて感動している。今までもこれからも。

野外コンサート、アムステルダムの運河にのせての場面でも胸がいっぱいになってしまった
なんて素敵なんだ…もう…ぜひ観てほしいシーン

お茶目なコントラバス主席奏者がショスタコ10番について熱く熱く語るシーンがとても良かった。
それまで室内楽などでベースラインしか弾いたことがなかった14歳の時、初めて弾いた交響曲がショス10で、コンバスにこんなメロディが与えられるなんて!と衝撃を受けたという

主にマリス・ヤンソンスが振っていたのだが、途中でシャルル・デュトワが振るシーンもあった。
ヤンソンスが最近まで首席指揮者だったのが今年他の人に代わるらしい。

昔、私もアマチュアオーケストラの団員の一人だった
チェロを弾いていた
この映画に出てくるラフマニノフのパガニーニの主題による狂想詩も弾いたことがある。プロのソリストと共演できて嬉しかった。

オーケストラで弾いていると、オーケストラの中で音楽を聴くことができるのが楽しかった。
指揮者というかっこいい人種を観察するのも面白かった。普通ではない人が多いと思う。

クラシック音楽の好きなところは、昔から廃れる事無く何度も何度も演奏されてきた曲を今生きている人たちがまた演奏するところ、その営み。特に交響曲は沢山の楽器、沢山の人数を必要とするところ、その複雑さ。恊働するということ。他のジャンルの音楽からは得られない気分の高揚があること。

音楽と旅が好きな人、ぜひ観てほしい。

2016年5月24日火曜日

アウラの衰退、テンペルの彗星

土曜日に、横浜美術館でやっている”複製技術と美術家たち”という展示を観て来た。
富士ゼロックスの版画コレクションと横浜美術館のコレクションの中から、ヴァルター・ベンヤミンの言うところの「複製技術時代の芸術作品」について。
技術の発展とアウラの変容。

富士ゼロックスがこれほどまでに網羅的な、充実した版画・写真・ゼログラフィーによる作品のコレクションを持っているということを今回の展示で初めて知った。
横浜にある会社ビルの中にアートスペースも持っているという

第1章 写真の登場と大画家たちの版画 
展示はウジェーヌ・アジェのパリの写真に始まる アジェはあくまでも資料としてパリを写真に収め続け、二束三文で画家たちに売った
ベンヤミンはアジェの撮る都市写真をまるで犯行現場の写真のようであると評し、中平卓馬は事物が眼に突き刺さってくると評した
会場に、アジェの撮ったPont Marieの写真が展示されていた
私は去年初めてパリに行くまでは、アジェの写真を通してパリを知っていたが、実際に訪れてみて初めてベンヤミンの言わんとすることが少し理解できた気がした
Pont Marieは小さな可愛い橋
アンリ・マティスの詩画集『ジャズ』やパブロ・ピカソのエッチング作品も展示されていて、もうこの時点で「富士ゼロックスコレクションすげえ」という気持ちになっていた

第2章 普遍的スタイルを求めて
ダダについて。バウハウスについて。 美術の教科書のようだと感心した。ベストアルバムみたいというか
クレーやモホイ=ナギやカンディンスキーに混ざって展示されているアウグスト・ザンダーの人物写真が良かった。
あとロトチェンコの写真が好きなので色々展示してあって嬉しかった。

第3章 変容のイメージ
シュルレアリズムについて。これも教科書みたいにおさえるべきところをおさえてあった ベンヤミンが言うところの「複製可能性に狙いを定めた」作品



マックス・エルンストの『Maximiliana, ou l'exercice illégal de l'astronomie(マクシミリアーナ、または天文学者の不法行為)』が展示されていてそれがとても良かった。
 学位がないために冷遇された天文学者で詩人で、天体観測を"見る芸術"と呼んだテンペル・エルンストを讃えた版画集。
これが観れただけでもこの展示に来てよかったと思った

                                   

秘密文字が好き
美しい
          



文字、美しい
テンペルが肉眼で発見したという星雲や惑星のことを考えた 
その孤独についても 

そういえば横浜美術館で数年前にマックス・エルンストの個展があったな。
 他にもコラージュ作品も数点展示されていた。
 彼のコラージュは秩序のある狂気が小さいサイズの画面に満ちていて好き。
カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢とか。 
 
あとなんかオシャレなエロ本みたいなのが展示してあるなと思ったらポール・エリュアールの詩とマン・レイの写真による詩画集だった 

第4章 大量消費時代にむけて 
ここはあまり興味がなかった。 ウォーホル、リキテンスタイン、オルテンバーグらのポップアートと全然スタンスの異なる荒川修作の作品が並べて展示してあるのはちょっと面白かった 

第5章 ゼログラフィーと美術家 
ゼログラフィーとは電子写真・複製技術のこと。1960年頃始まった 
新たな手法を手に入れた美術家たちの試みが面白いし楽しそう、野村仁とか河口龍夫とか
 高松次郎の「この七つの文字」「THESE THREE WORDS」も展示されていた 
初めてゼログラフィーを作品に用いたのはブルーノ・ムナーリだと知ってへぇと思った 
ご多分に漏れず私はムナーリが大好き 
Xerographieは非常に先駆的な作品だったんだな

 



全体を通してベンヤミンの言葉を引きつつ、説明が丁寧でコレクションが網羅的という印象
アウラ、ダダ、バウハウス、シュルレアリズム、などなんとなく言葉は知っているがよくわかっていない、美術史の流れを体系的に把握しているわけではないという人が行くと理解が深まって良いと思う。
ベンヤミンが言及した美術や写真の実作品を、考察や発言の引用と共に展示している

女性作家に焦点を当てたコレクション展の方も良かった。
熊井恭子のステンレスチール線による立体造形が印象的
写真の展示室ではスタイケンやカニンガムの写真の他にマヤ・デレンの実験映画『午後の編目』が上映されていた