2016年4月1日金曜日

Kinder Than Solitude

時々、昔は親しかった人たちに会いたくなる。

それは何かを目にしたことをきっかけに始まることが多い。
例えば、もういくら拭いたところで本当には綺麗にならない鏡、漏れ出して機能しなくなるほど決定的ではないがたしかにひびが入っているマグカップ、爪先がまだ乾いていないタイツ、足の甲がほんの少し破れているムートンブーツ、電池を換えればまた元のように動き出すのであろう腕時計とか、そういういつも目にしている日常品のうまく行っていない部分、機能のほころびに気が付くときなどがそうだ。

例えば、別れてしまった恋人とは、もう二度と会えないのだろうかと考える。
もし会えたとしても、まるで別人みたいで昔のように気持ちが通い合うことはないだろう
昔は気持ちが通い合っていたというのもただの私の思い込みかもわからない。
自分以外の人の気持ちは、本当には一生わからない。

昔の恋人というのは一例で、誰だって思い出すのをやめられないわずかな人たちがいるだろう。

人生は短く、人の気持ちは移ろう。
過去は過去でしかなく、私が生きているのは今だということは理解している。すでに終わったことを一人でずっと考えて悲しくなっていても仕方がない。内にこもった悲しみは、ただ毒になるだけだ。
それでも過去のことをあれこれと思い出すのをやめられない。

中国の出身で今はアメリカで暮らしている作家、イーユン・リーの小説『独りでいるより優しくて』を読み終えた。

四人の登場人物たちは多感な時期に起きたある事件によって"服毒"する。それぞれ心に過去の重荷を抱えたままその後の人生を歩んだことによってゆっくりと毒が回り、孤独の中で身動きがとれず、誰とも心を通わすことができない状態になっている。

一人は、仕事で成功しながらも、無残な終わり方をした初恋と友情を引きずり、誰とも親密な関係を築けないまま、若い女の子のシュガーダディ役を自嘲的に演じている。事件が起きた北京で暮らし、もうここにはいない2人の女性のことを考えるのがやめられない。

一人は、アメリカへ行くために結婚し、離婚し、結婚し、離婚し、誰とも親密な関係を築くことのないまま、むしろそれを唯一の財産として生きている。自分に関心を持ち関わってこようとする者を遠ざけ時には破壊することを厭わない。望めば自分なら手に入れらることを知りながら、何も望まない。

一人は、本当は独りでは生きていけない性質なのに、異国で自分を愛してくれる人と巡り合うことができたのに、自分を罰するかのように孤独に生きることを選択し、二度と中国には帰らない。幸せは全て過去にあり、ここではないどこか他の場所で起こる自分ではない誰かの物語を空想することだけが心の癒しだ。

一人は、もう何も考えることができず、自分の人生に対して何も言えないまま、一生を終える。彼女が何を考えていたのか、もう誰にもわからない。自殺したのか?他の三人のうちの誰かに殺されたのか。彼女の死により、残された三人の人生が動き出す。この物語はミステリの形を取っていて、真相はぎりぎりまで明かされない。

リーのこれまでの著作は、邦訳されたものは全て読んでいる。
簡潔なのに密度が高い文章で、一つ一つの文を読んで自分の中に通すのに時間がかかる。
デビュー作『千年の祈り』やそれに続く『黄金の少年、エメラルドの少女』のような短編集だと、その密度の高さが短編なのに壮大な長編を読んだかのような気持ちにさせてくれるのだが、そのままのクオリティで今作や前作『さすらう者たち』のような長編になると、たしかに存在する他人の人生に軽い気持ちで触れてしまったかのような、知らずに生きていたかったことを知らされた時のような、重々しくて受け止めきれないような気持ちになる。

どの作品でも「孤独」が一つのテーマであると思う。
テーマというよりは、抗議としての孤独を選ぶ人たちの物語だ。
孤独と言ってもsolitudeとlonelinessは違う。彼女が繰り返し描くのはsolitudeの方だ。
lonelinessは感情的な寂しさであり、solitudeは自分で選んだ状況である。
孤独は楽しめるけれど寂しさは楽しめない。

私はいつも彼女の書く小説を読むと、様々なことを考えて気持ちが滅茶苦茶になる。
飛び散った気持ちや思考を整理して把握し、箱に仕舞うために感想を書いている。

物語を通して登場人物たちは様々なことを私に問いかけてきた。
「どうして誰も彼もが、ただそうしたいからっていうだけで誰かの人生を変えていいと思うの」
「二人の人間に純粋な関係なんてあるの」
「人はどうすれば他人のことがわかるのか」
そういった質問に慣れていない私は、質問のたびに戸惑ってページをめくる手が止まってしまった。

私も昔は、人は深い悲しみを知ると凡庸でなくなると思っていた。
だから、自信喪失で損なわれたり世の中への不信で腐ったりしていない若い心だけが持っている気楽さで、絶望や不幸に憧れたりもした。この小説に出てくる黙然という少女と一緒だ。
黙然はモーランと読む。読み始めた時はすごく重々しい名前だなくらいにしか思っていなかった。彼女がアメリカで新しい暮らしを始めるにあたって"ラーラ"という名前を自分につけたのもわかると思った。黙然ではなくラーラだったら、どこへでも行けそうだし誰とでも新しく恋に落ちることができそうだ。
読み終えてみれば非常に意味のある名前だった。

訳者によるあとがきに登場人物たちの名前の漢字は邦訳にあたり全て作者が指定したのもだ、と書いてあった。リーは英語で小説を書いている(英語でしか小説を書いたことがない)。また彼女の小説は、母国語である中国語では翻訳されていない。
つまり、登場人物たちの名前の漢字を味わうことができるのは日本の読者の特権なのだろうか。もしそうなら少し嬉しい。特に如玉という名前は美しいが冷たい彼女という人間をよく表していると思った。ユールイと読む。

如玉の行動を知って、ただ黙っていることができなかった過去の自分をずっと責めている黙然はこう考えている。
できるだけ浅くしておいた根をいつでも引き抜けること、気づかれも惜しまれもせずに出て行けること、これらによって処女みたいな自由を守ることができる、と。
誰かや何かを気にかけることのすべてが心を乱す。無欲であれば強くいられる。

それはその通りかもしれない。
私だって、愛や別れがもたらす孤独や悲しみに対して免疫を持ちたい。強くなりたい。傷つきたくない。
この小説の彼女のように、他者と距離を置き、自分に深く踏み込んでくるものは破壊し排除していけば、たしかに心の安寧は得られるだろう。

常に不安がある。心を開いてもこの人もいずれ去っていくのではないか。
激しい幸福感の後には必ずや絶望や喪失感がついてまわるのでは。
心なんて、一生不安。

好きな人には、今だけでなく過去も未来もある誰かだと見られたい。自分が連続した存在だと主張したくなる。

何か過去の自分について話そうとして思い返すときの人生は単純化され、逸話の集まり程度になっている。まるでどこか観た映画の記憶みたいだ。
人を好きになると、お互いの過去のエピソードを交換し合うように話したり、未来への希望を口にしてみたりするのはその欲望のせいだと思う。叶わないと知りながら二人の恋人同士は連続性の幻影をちらと見るのだ。

この長い小説を読んでいる間、そういった今までの人生の記憶が、過去のことなのにまるで現在のことかのように不意にやってきて擦過していって、打ちのめされた。
小説の終わり方は少し優しい。

重い過去とは裏腹に、活き活きと情緒豊かに描かれる北京の街の情景が鮮やかだった。
四号院が並ぶ胡同の路地裏、広大な天安門広場、北京駅、前海のほとり。
街の人々は言う、今度の秋は北京に恋をするから待っててごらん。
それに対し、どんどん変わって行く現代の北京の様子。
私は北京へ行ったことがない、いつか訪れる時この小説の描写のことを思い出すだろうと思った。

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